HISTORY

■序 章  1955~1972

マイケル・シェンカーは1955年1月10日ドイツ(統合前は西ドイツ)のハノーバー郊外のサーステッドでハウス・デザイナーの父ハインリッヒ・シェンカーと電話交換手の母ウルズラ・シェンカーの間の次男として生まれます。兄にルドルフ・シェンカー、妹にバーバラ・シェンカーを持ち、その兄妹はプロのミュージシャンとして成功しています。裕福な家庭とは言えなかったようですが、ごく平均的で家族の幸福感は充実していたそうです。父はヴァイオリンを、母はピアノを嗜む音楽家庭でした。ちなみに兄のルドルフ・シェンカーは「親父はヴァイオリンを弾いていた、と言うより弾いているつもりだった」と言っています。父のハインリッヒが二人にアコースティックギターを買い与えたことや兄のルドルフ・シェンカーの影響でマイケルは9歳からギターを弾き始めたそうです。その頃マイケルが憧れていたのがエルヴィス・プレスリーで「エルヴィスのようになりたい!」が口癖だったようです。最初の頃はルドルフのギターのチューニングをするくらいだったそうですが、ルドルフも一人で弾いているのも退屈なことからマイケルに「手が小さいお前でも、これならメロディを巧く弾く事が出来るからやってみないか」とシャドウズのテープを渡したそうです。それからルドルフが仕事に行って帰ってきたら、マイケルは既にメロディーをマスターしていたそうです。マイケルは「いつどこでギターを弾き始めたか正確に覚えていない。気が付いたら弾いていたって感じ」と言っています。そして、マイケルが10歳になったばかりの頃、兄ルドルフが「スコーピオンズ」を結成します。マイケルも兄のルドルフの影響を受け、いつか自分もグループを組んでバンドをしたいという思いを抱き始めたそうです。そして11歳になるとマイケルは学校の悪友を集めて初めてのバンド「ジ・イノヴェイツ」を結成します。ビートルズのコピーバンドだったそうです。全員がヴォーカルを担当するスタイルでビートルズそっくりのコピーバンドで特にプロを目指したバンドではなく、スクール・バンドとして活動している状態だったようです。その「ジ・イノヴェイツ」も3ヶ月ほどで解散してしまします。その一方、マイケルはサッカーにも夢中になっていたそうです。6年間チームに入りサッカーを続けてきましたが、ある時期に差し掛かると、サッカーと音楽の両立が難しくなります。毎週土曜日、日曜日になるとギグとサッカーの練習日が重なり、サッカーか音楽か、どちらを取るか決めなければならなくなったそうです。悩んだ末、音楽を選択することになります。何となく音楽の方が自分のものだという気がしたとマイケルは言っています。レズリー・ウェスト、ジェフ・ベック、リッチーブラックモア、エリック・クラプトンなどのプレイヤーに影響を受けギターの練習やコピーに熱中していたそうです。その頃、兄ルドルフが結成した「スコーピオンズ」は週末に演奏しては、少額ですがギャラをもらていると聞き、マイケルはさらに影響を受けます。そして、13歳になるとマイケルは、本格的に活動できるメンバーを探し始めます。そのメンバー探しは難航したそうですが1人だけマイケルの音楽観に賛同したホルガ―・ツェルべ(ベース)と意気投合し、そのホルガ―の知り合いを通じてメンバーを集め5人編成のバンド「クライ」を結成します。「クライ」はビート・グループの影響を受けビート・ミュージックのバンドだったそうです。バンド・メンバーそれぞれがテクニック持ち「ジ・イノヴェイツ」のスクール・バンドに比べ本格的な路線を進み始めていました。地元サーステッドでは、たくさんのバンドがある中「クライ」は平均年齢が最も低く、それが話題になり新聞に「クライはドイツ最年少のビート・グループだ」と掲載されるほどでした。これはマイケルも「うれしかった」と言っているようです。そして「クライ」はハノーバーでコンサートを成功させドイツで知名度を広げていきます。マイケルのギターとホルガ―のベースのコンビネーションが絶妙でテクニカルなグループだという評価を受けていたそうです。しかし、マイケルの上昇志向とメンバーの歩調にずれが生じ始めグループ内で、もめ事が多くなっていったそうです。そしてグループ内で派閥が生じマイケル&ホルガ―とその他3人といった状態で、とうとう解散してしまったそうです。その頃、兄ルドルフが結成した「スコーピオンズ」はビート・ミュージックからブルース・ロックへと徐々に変化していったそうです。クラブ出演のレギュラーを獲得し着実にバンドとして進化しパワーをつけていたそうです。その「スコーピオンズ」にライバルのバンドがあったそうです。それは「マッシュルームズ」という個性的なグループでした。何度か同じステージに立ちますが深い関わりはなかったそうです。そして「マッシュルームズ」のヴォーカルを担当していたのがクラウス・マイネでした。その「マッシュルームズ」がメンバー間のトラブルから、1968年解散してしまいます。クラウス・マイネは同じ「マッシュルームズ」のドラマーだったマイク・グリミケと新しいグループを結成するためにメンバーを探していたそうです。ある日、クラウス・マイネがルドルフの元にやってきます。顔見知り程度の関係だったそうですが、何とかメンバーを紹介してもらえないかと。そして、ルドルフは相談に乗ったそうです。クラウス・マイネはギターとベースを探していて、それならちょうど「クライ」を解散したマイケルとホルガ―が適任だと頭に浮かび、紹介することを考たそうです。ルドルフは「クライ」のマイケル、ホルガ―と「マッシュルームズ」のクラウス、マイクの間に入り、引き合わせて「コペルニクス」というバンドが結成されます。「コペルニクス」でマイケルはビート・ミュージックから本格的なロックに転換していったそうです。その頃のマイケルはギター・プレイの鍛錬は欠かさなかったそうです。この時期にマイケルはテクニックを吸収していたそうです。一方、兄ルドルフのバンド「スコーピオンズ」は、まだアルバムは発表していませんでしたが、セミ・プロとして国内での人気はなかなかのものだったそうです。しかし、バンド結成以来、最大のピンチを迎えます。「スコーピオンズ」の中心メンバーであるリードギタリストが麻薬所持で警察に捕まったことで活動休止を余儀なくされます。ルドルフは「スコーピオンズ」再開を画策しそのためにも新しいギタリストが必要。そこでルドルフはマイケルに参加を要請しました。マイケルは、ずっと兄ルドルフの「スコーピオンズ」にあこがれていたこともあり、それを快諾します。マイケル・シェンカー14歳でした。「スコーピオンズ」の活動を休止している間、マイケルは作曲に取り掛ります。ルドルフがグループ再開に向けて翻弄している間、マイケルはプロへの階段を着々と上っているといった実感と沸々と湧き上がるパワーを感じながら曲作りとギターの鍛錬を、自分なりの準備として取り掛かっていたそうです。そして、ルドルフは新成「スコーピオンズ」に新しいヴォーカリストを迎えるアイデアが浮かび、マイケルに相談したそうです。そして、二人が一致した人物がクラウス・マイネだったそうです。ということでクラウス・マイネが「スコーピオンズ」に正式加入します。マイケルが「スコーピオンズ」に加入して3ヶ月後の事だったそうです。短命に終わった「コペルニクス」のメンバー、ホルガ―とマイクはマイケル・クラウスに心からのエールを送り「コペルニクス」の解散を快く承諾したそうです。そうしているうちに、ルドルフの精力的なプロモーションの効果が表れ、いくつかのギグが連続で決まり、新成「スコーピオンズ」として活動を再開します。そして1971年「スコーピオンズ」の活動に目を光らせていたドイツの大手レーベル「メトロノーム」からレコディングの話が持ち掛けられ、「スコーピオンズ」としては、このチャンスは逃せないということで、即OKを出し、契約を交わしたそうです。そして低予算の中、わずか7日間でデビューアルバム「LONESOMECROW」(1972年リリース)を完成させます。これがマイケル・シェンカーにとって初めてのレコードデビューでした。

■愛 器  1972~1973

マイケル・シェンカーがスコーピオンズに加入しデビュー・アルバム「LONESOME CROW」(1972年リリース)を発表した翌年、スコーピオンズは、ハノーバーやハンブルグといった大都市に進出し、スコーピオンズとして国内のライブツアーを行ったり、ドイツを訪れるイギリスのバンドのサポート・アクトを務めたり活動範囲を広めていったそうです。その頃、マイケルはギターの練習方法が変化していったそうです。マイケルシェンカーが16歳の頃からは、他者のアルバムを買ったり聴いたり、他者のプレイをコピーしたりすることを全く止めて、外からの影響をシャット・アウトしたそうです。そして、17歳には、自分の思うまま感じるままを音楽に出来るよう、他者のプレイをまねることは止め、ストイックに練習に明け暮れていたそうです。マイケルがレスポールからフライングVに持ち換えたのもこの頃だそうです。マイケル・シェンカーがフライングVを持つようになるきっかけは、いろいろ言われています。マイケルは、ギグの前に当時愛用していたレスポールの弦が切れて、ルドルフがフライングVを貸したことがきっかけで、最高の音、形、手触りが気に入り、マイケルがルドルフにレスポールと交換してほしいと、懇願しルドルフが根負けしフライングVをGETしたと言っています。しかし、ルドルフの説明によれば少し違います。コンサートの時、マイケルがレスポールを部屋に置いたまま部屋の鍵を失くしてしまい、みんなでカギを必死で探したが見つからず、ルドルフがマイケルにフライングVを貸してコンサートを乗り切ったというものです。これはクラウス・マイネも同じ見解だそうです。いずれにしても、記憶の違いはあるにせよ、ハプニングが起こり、普段レスポールを引いていたマイケルがルドルフからフライングVを借りることになり、マイケルがフライングVを離せなくなったということだと思います。また、それとは別なきっかけをマイケルとルドルフは雑誌の取材で話しています。マイケルには当時、ガールフレンドがいて、その彼女と別れて、彼女の家に置いていたレスポールが取り戻せなくなったというものです。ハノーバーのギグが迫っていて、仕方なく他のギターを試そうということになり、最初にメロディー・メーカーをマーシャルにつないだのですが、フィードバックがヒドくて弾けない状態だったそうです。そこで、ルドルフはマイケルに自分のフライングVと50Wマーシャルを渡して、ルドルフはメロディーメーカーと100Wマーシャルを使うことにしました。そして、そのギグを終えた2週間後、別のクラブでプレイする事になった時、マイケルはフライングVを気に入ってしまいVを返してくれなかったと笑いながらルドルフは言っていたそうです。遂にマイケルはそのフライングVをルドルフからもらい受けることになりますが、ルドルフはバンド内にフライングVが2本あるのは何かやり過ぎという感じがしたそうで、それを避けるために代わりに使えるギターを色々試したそうです。ところがどれもシックリこなかったそうです。SG、レスポール、フェンダー系なども試すも、結果ルドルフにとってもフライングVが一番合っていたそうで、結局、元のVにもどったそうです。

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■遭 遇  1973

マイケルシェンカーがスコーピオンズに加入して、デビュー・アルバム「LONESOME CROW」(1972年リリース)を発表した翌年、スコーピオンズは、ハノーバーやハンブルグといった大都市に進出し、スコーピオンズとして国内のライブツアーを行ったり、ドイツを訪れるイギリスのバンドのサポート・アクトを務めたり活動範囲を広めていきました。そして、1973年7月18日、マイケルにとって転機が訪れます。スコーピオンズがUFOというイギリスのバンドのサポートをしている時、ライブ直前にUFOのギタリスト「バーニー・マースデン」がパスポートを紛失したために参加できないと言って姿を現さなかったのです。ここで「ミック・ボルトン」という解説が多く見られますが、1972年1月に「ミック・ボルトン」は既にUFOを脱退していて、後任に「ラリー・ウォ―リス」が1972年11月までの10ヶ月間加入しますが、なじめず脱退、その後1972年11月から「バーニー・マースデン」が加入しています。時期的にパスポートを忘れたとされるギタリストは、「バーニー・マースデン」だと思われます。そして、続きですが、そのUFOとしては、ギタリストがいない致命的な状況で、そのライヴをあきらめることも考えたそうですが、もしキャンセルしたら学生(観客)が怒り狂ってガラスを割りまくると、なかば主催者に脅される形になり、UFOメンバーは窮地に追い込まれます。そこでフィルがたまたま前座で演奏していたスコーピオンズをみていたらギタリストに「すごいヤツがいる」となり、フィルがピートに彼を借りるというのはどうかと打開策を持ち掛けます。ピートも「前からマイケルのギターは好きだった」ということで、出演料をもらうためにも、フィルとピートはルドルフの元にマイケルの借り受けを願い出ます。英語ができないことから、最初マイケルは戸惑ってたそうです。わかるのはYesとNoぐらいで、ピートがその日のライヴのラン・スルーやコード・チェンジ等を説明するためにスコーピオンズの演奏が終わってマイケルと控室(男子トイレが楽屋だったそうです)で音合わせしてピートはア然としたそうです。ドイツ語と英語ではドレミの呼び方が違い、言葉でのやり取りでは説明が出来ず、それでも何とか音合わせをして何をするかそれなりに伝えたそうです。そして、マイケルは臨時でUFOのギターを担当し見事にその難関を乗り越えそのライヴを大成功に収めるのです。言葉の通じない者同士が45分程度のライヴでしたが、音楽の感性だけでジャムのようにやりこなすマイケルとの一時的なセッションにUFOのメンバーもいたく感動したそうです。その後マイケルはバンド イコール プレイってことだから言葉はいらない。こうだろって弾いて表現しただけと言っています。これはロック・ヒストリーにおけるひとつの伝説といっても良いのではないでしょうか。

■新天地  1973~1975

UFOのギタリスト、バーニー・マースデンはパスポートを忘れたといってライヴ会場に姿を現さず、結局UFOに戻ってくることはありませんでした。このことについて、当時ピート・ウェイはバーニー・マースデンがパスポートを忘れたという言い訳はバンドを辞める(去る)ためだったのではないかと疑問視していたそうです。臨時でマイケルがギターを担当してからUFOのリーダーのフィル・モグ(Vo)はマイケルを気に入りUFOへの加入を依頼します。しかし、マイケルは何度も断ったそうです。スコーピオンズも軌道に乗りかかっている状態でスコーピオンズを離れたくなかったのか、またシンプルに環境を変えたくなかったのか分かりませんが拒否したとなっています。しかし、フィルは諦めずラブ・コールを送り続けたそうです。実は、マイケルはそれまでに、もしイギリスのバンドから誘われたらスコーピオンズを辞めてそっちへ行くとルドルフをはじめメンバーには話をしていたそうで、何度もUFOからオファーを受けると(おそらく数日のオファー)、ついにマイケルも決意し1973年7月UFOに正式に加入することになります。一方、スコーピオンズはセカンドアルバムの制作に入っており、「FLY TO THE RAINBOW 」(1974年リリース)を発表します。マイケルは3曲の曲作りに参加していてマイケル・シェンカーの名前もクレジットされています。マイケルのスコーピオンズ正式メンバーとしての最後の仕事でした。1973年7月ロンドンに到着したマイケルは、早速UFOメンバーと共に曲作りに入り生まれ持った才能と感性を発揮し始めます。7月にはマーキー・クラブで数回ギグをこなし、9月にはドイツへ行き9月18日ベルリンにおける「ART Indoor Festival」というTV用のライブが決まっており、それに出演しています。これがマイケルの最古の映像と言われており、新曲として未完成ですが「Rock Bottom」を披露しています。そして、マイケルがUFOに加入して初めてのシングル「GIVEN HER THE GUN」(1973年リリース)を発表します。続いて、UFO は1973年末からMorgan Studiosでニューアルバムの制作を開始します。プロデューサーはクリサリスから推薦された、レオ・ライオンズが起用されています。英語が全く話せないマイケルに対しドイツ語が話せたレオ・ライオンズが他のメンバーとの仲介役となり意思疎通のとれた状態で、スムーズにレコーディングは10日間で終わったそうです。このアルバムの制作にあたりライティングセッションはロンドンの北東部にある小さなリハーサル・ルームで行われ、デモテープを作成した時にはすでに「Doctor Doctor」「Rock Bottom」などが存在していたそうです。翌年1974年 5月にUFOにとって4作目のアルバム「PHENOMENON」をリリースします。マイケル・シェンカーは18歳。その才能が開花しUFOのサウンド自体が変化します。ほとんどの曲がマイケルのもので「Doctor Doctor」「Rock Bottom」などはその後のブリティッシュ・ハードロックシーンに大きな影響を与えることになります。1975年 7月にマイケルが加入して2枚目のアルバム「FORCE IT」をリリースします。さらにマイケルのメロディ、サウンドが前面に出てUFOにとってマイケル・シェンカーはなくてはならない存在になっていきます。クリサリスはスタジオにおいては、プロデューサーのレオ・ライオンズとバンドだけに任せ彼らを信頼し、無用なプレッシャーから解放された状態でのレコーディングだったそうです。レオ・ライオンズの手法としては、マイケルの好きなようにやらせるという主義であったためリラックスと、自由度は増したものだったと言われています。そして、レオ・ライオンズは長いソロの曲構成を許し、それが好結果につながったとも言われてます。


■軋 轢  1973~1975

UFOのリーダーであるフィル・モグによる正式オファーにより、マイケルは1973年にUFOに正式に加入します。マイケル・シェンカー18歳です。兄のルドルフ・シェンカーを通して要請があったとのことですが、弟思いのルドルフはマイケルのUFOへの加入は、もう少しスコーピオンズで修行してからイギリスへ渡っても遅くないのではないかと考えていたそうで、それは兄としてよく知っている、弟のマイケルの精神面のことを考えたという秘話が残されています。スコーピオンズを離れるわけですから、マイケルとしても色々悩んだ事だと思われますが、以前より、もしイギリスのバンドから誘いがあったらスコーピオンズを辞めてそっちへ行くと周囲にも言っていたようなので、マイケルの気持ちは決まっていたのだと思われます。UFOに加入した直後にローリング・ストーンズのオーディションを受けてみないかというオファーがマイケルに届いたそうですが、いくらイギリスのバンドに行きたいと言っていたマイケルも「ちょっと行きすぎな気がする」と言って断っています。また、エアロスミスからジョー・ペリーが離脱し、その後任の話も届き、実際にエアロスミスのメンバーとも演奏していたそうですが、実現することはありませんでした。1973年7月イギリスへ渡り、マイケルはフィルの家に移り住むことになったそうです。翌年の1974年 5月にUFOにとって4枚目でマイケルが加入して1枚目のアルバム「PHENOMENON」をリリースします。UFOはマイケルの加入によって曲やサウンドに変化が現れ音楽性を確立しブリッティッシュ・ハードロックシーンに頭角を現すことになります。しかし、マイケルにとってUFOは決して良い環境とは言えなかったのです。そもそもマイケル・シェンカーはドイツ人です。英語が上手く話せないことで英国式ユーモアも理解できず、メンバー間のコミュニケーションも取れず、感覚の共有もできない状態で、孤立していたそうです。3人の英国人と1人のドイツ人という構造がツアーやレコーディングなどの中で対立という形を生み出していったそうです。おそらく自分の要望や理想をうまく言えなかったのか、周囲のメンバーが理解できなかったのか、それとも分かろうとしなかったのか・・・とにかくマイケルにとってUFOは居心地の良い場所ではなかったということだそうです。UFOメンバーは飲酒と無軌道な行動を繰り返し、特に飲酒の量が尋常ではなく、共にツアーを周ったラッシュのメンバーからも証言があるほどだそうです。マイケルはそんなバカ騒ぎをしてるメンバーとは関わらず距離を置き、常にギターの練習をしていたそうです。このような状態でマイケルの精神状態は追い込まれて行きます。フィル25歳、マイケル18歳。この年の差によりジェネレーションも異なり、フィルの性格もマイケルとは正反対だそうです。フィルはボクシングの嗜みがあり、気性が激しい人物としても知られていました。ツアー中ローディが何度も殴られる姿を多くのメンバーが目撃しているという話もあります。初代UFOのギタリストのミック・ボルトンもフィルと義理の兄弟であるにもかかわらずフィルに殴られバンドを追い出されたというエピソードもあるそうです。しかもフィルが暴力を振るうのは、たいてい酔っぱらった時だそうで、さらにタチが悪いのです。云わばUFOはフィルが支配しておりフィル・モグのワンマンバンドでした。「PHENOMENON」(1974年 5月リリース)を発表した同月よりイギリス・ツアーが始まり、10月にはステッペンウルフのサポートとして初の全米ツアーも行っています。そのイギリスのツアーでは、UFO を支配しているフィルは、なんとツイン・リード・ギターのバンドを目指すのです。セカンド・ギタリストとして「ポール・チャップマン」を加入させマイケル・シェンカーとポール・チャップマンを並べてツイン・リード・ギターでステージに立たせたのです。これがマイケルをさらに不安にさせたのです。マイケルは兄ルドルフに何度か電話をかけ話を聞いてもらっていたようですが、その様子からマイケルがかなり精神的に弱っているのに気づき数回、兄ルドルフはマイケルを励ますためにイギリスを訪れ、じっくりマイケルの話に耳を傾けました。マイケルはイギリスに話し相手がいなかったことで一方的にしゃべり続けたそうです。ルドルフ曰く、マイケルは自分がギタリストとして信用されてないのではないかと悩んでいて、UFOのメンバー間のコミュニケーション不足もあり、どうしてポール・チャップマンがUFOに必要だったかマイケルには知らされていなかったそうです。後にフィルが言うには「PHENOMENON」(1974年 5月リリース)を発表した頃、もっとサウンドに厚みを加えるためにギターかキーボードを新たに加えたらどうかと言う話が持ち上がったそうです。プロデューサーのレオ・ライオンズも必要と言っていたこともあり、メンバーで相談したそうです。その時、マイケルはあまり必要性を感じておらず、もし入るならキーボードの方がいいのではないかと言っていたそうです。しかし、適当なミュージシャンが見つからず、ポール・チャップマンが加入することになるのです。言葉の障壁とストレス、さらにポール・チャップマンの加入により、なんとマイケル・シェンカーは1975年 1月にUFOのメンバーに何も言わず姿を消してしまうのです。

■黄金期  1975~1976

1975年 1月 マイケル・シェンカーは突然、UFOのメンバーの前から姿を消してしまいます。いわゆる「謎の失踪」です。ある夜コンサートの時間になっても、マイケルの姿が見えないので体調不良なのかもしれないという事で、その夜のコンサートはポール・チャップマン1人の演奏でコンサートを乗り切ったそうです。しかし、次の日もマイケルが顔を出さなかったことで、部屋を訪れると誰もいない状態で、知り合いの話ではマイケルはドイツに帰ったという情報が入り、グループでは大騒ぎになったそうです。フィルはこの事態を収める事と今後このような事態を招かないためにグループでミーティングを何度も行ったそうです。その結果ポール・チャップマンが自ら身を引く形でケリが付くのです。マイケル失踪前のツアー中ではマイケルとポール・チャップマンは同室で、お互い親交を深めていたそうです。ポールはそれまでゲイリー・ムーアの後任としてスキッド・ロウに所属していましたが、バンドに嫌気がさしていた時にメロディー・メーカー紙にUFOのギタリスト募集の告知を見つけ、正規のオーディションを受けてUFOに加入しました。そこまでして正式に加入したのにも関わらず、ギタリストを両立させることが難しいという勝手な理由でメンバーから外されてしまうのです。しかも自ら身を引くという形で・・・ポールも納得できなかったのではないでしょうか。その後、マイケルが脱退した後のUFOをポール・チャップマンが支えることになりますが、それはもう少し後になります。1974年のマイケルとポールのツインギターでのステージングは、ギターはマイケル1人の4人編成で始まり、途中からステージの裏からポールが出てきて5人編成になりツインギターでのステージになっていたようです。どうして、このようなややこしいステージが行われていたかはわかりませんが、1974年ツイン・ギターのUFOの音源の1部がイギリスBBC配給の「BBC THEARCHIVESERIES UFO  In Session and Live Concert」や「UFO at the BBC ON AIR」等に収録されています。「Doctor Doctor」「Rock Bottom」などが収録されています。ポールが後にインタビューで米ツアーに入る前にUFOを去ったと言っていたそうです。となると1974年10月以降はポールはいなかったことになります。「失踪」はその3ヶ月後の1975年1月ですので「ツイン・ギター問題」にケリがついた後、米ツアーを行い、その後「UFO体制」「フィル体制」の不信感からの「失踪」だったのではないでしょうか。今となっては、よくわかりませんが、とにかく、マイケルとポールのツインリードの組み合わせは、4~5ヶ月間という限られた期間しか実現しませんでしたので「BBC THEARCHIVESERIES UFO  In Session and Live Concert」や「UFO at the BBC ON AIR」は結果的に貴重な音源となったというわけです。そしてマイケルが加入して2枚目のアルバムの制作がスタートします。プロデューサーにレオ・ライオンズ、前作の「PHENOMENON(1974年 5月リリース)と同じく2週間ほどでレコーディングが完了します。そして、1975年 7月に「FORCE IT」をリリースします。さらにマイケル色が強くなったアルバムで、これで全米ツアーを行います。「FORCE IT」(1975年 7月リリース)の前作との違いはレコーディングの時にゲスト・キーボードとしてチック・チャーチルを迎え入れたことです。バンドとしては継続的にメンバーに加わってほしい意向をチック・チャーチルにオファーを送ったそうですが、趣味のゴルフを続けられなくなることを理由にそのオファーを断っています。その後バンドとしては、どうしてもメンバーにキーボードが必要になります。そして、新たなキーボードに「ダニー・ペイロネル」を加入させUK & USツアーを成功させました。ダニー・ペイロネルはピート・ウェイの友人を介してUFOを紹介され、比較的UFOの加入はスムーズに運んだそうです、そして1975年 8月22日にレディング・フェスティバルを控えているため、リハーサルも兼ねて、その3日前の「イン・コンサート・オン・チューズデイ」からバンドに帯同しています。もともとキーボードの必要性はマイケルの主張からだと言われています。そのため、アレンジやその他のダニーの力が発揮されて、マイケルとしては満足していました。そして、マイケルが加入して3枚目のアルバムの制作に入ります。プロデューサーにレオ・ライオンズ、キーボードにダニー・ペイロネル。1976年2月1日から制作が開始され1976年 4月「NO HEAVY PETTING」をリリースします。4月から英国ツアーが開始され続いて全米ツアーが行われます。マイケルにとっては、このスケジュールは3年ほど続いている状態です。そのルーティーンがプレッシャーとなり、またフィルとマイケルの間に緊張感が高まり、バンド内にも「歪み」が生じていきます。それまでも言葉の障壁、ポール・チャップマンのいきなりの加入、フィルへの不信などで蓄積されたストレスは増大していきます。ダニー・ペイロネルはアルゼンチン出身で、セカンド・ギタリストのポール・チャップマンはウェールズ出身。フィル、ピート、アンディの幼馴染の独特の雰囲気やバカ騒ぎにはついて行けず、ポール・チャップマンもダニー・ぺイロネルもマイケルと行動を多く共にしていたそうです。それから考えるとUFOに加入したマイケルの孤立した状態は、マイケルでなくても誰が加入しても、そのパワー・バランスは変わらず同じ境遇になっていたと考えられます。そして、UFO として「NO HEAVY PETTING」はマイケルが加入して3枚目のアルバムともなると、アレンジに磨きがかかり自信に満ち溢れた作品となりました。マイケルとダニーの共作クレジットは見当たりませんが、「On With The Action」はマイケルとダニーが楽屋でジャムを行って完成させたものだと言われています。キーボードが加わることで新たな発想や化学変化が現れアルバム制作に手応えを感じていたのでしょう。ところが、アレンジの問題でフィルと対立します。マイケル主張のアレンジとフィルが主張するアレンジが食い違い、2種類のテイクをレコーディングをしますが、フィルの発言力が勝りフィルの主張したアレンジがアルバムに収録されマイケルの主張していたアレンジは没になってしまったそうです。そしてアルバムのセールスは、前作に比べるとさほど上がらない状態が続きました。UFOとしては、新しく加わったダニー・ぺイロネルの音楽性がUFOの方向性とは少し差があるという違和感を感じ始めていたそうです。本来キーボードを加えるコンセプトはマイケルのギターを補完する目的があり、さらにサウンドに厚みを加えるというものでした。レコーディングの段階では特に問題にならなかったそうなんですが、ライヴになると如実にサウンドとダニーの奏法の方向性に乱れが現れ、リーダーのフィルを悩ませました。それはマイケルも同じ考えだったそうです。「ダニーは素晴らしいプレイヤーだが、彼のスタイルは僕たちには合わない。」となり結局 UFO は、1976年 9月 ダニーを解雇することになります。次にUFOがセールスに伸び悩んでいる問題で、今が正念場であることはメンバー間の共通の思いだったそうです。しかし、UFOは自分たちのプロモーションにクリサリス・レコードは全力で取り組んでいないということでトラブルが発生します。UFOはプロデューサーを選択できる権利を要求したそうです。レオ・ライオンズの音創りでは不安が多く満足のいく作品ができないという思いからだそうです。しかし、クリサリスはその要求を一蹴します。そのようなやり取りを地道に続け、クリサリス側の理解でその要求をクリサリスは認めたそうです。UFOでは新たなプロデューサーを既に要請していました。ロン・ネヴィソンでした。ザ・フー、レッド・ツェッペリン、バッド・カンパニーなどのエンジニアを手掛け実績としても申し分ありませんでした。次にキーボードのダニー・ぺイロネルに替わるプレイヤーの補充でした。それは、1976年 5月28日、ミシガンでナザレスのオープニングをUFOとサヴォイ・ブラウンが努めたそうです。その時のサヴォイ・ブラウンのヴォーカルをしていた「ポール・レイモンド」はマイケル・シェンカーのギター・プレイを見て惚れ込んでしまうのです。その夜ピート・ウェイと意気投合し、ピートからバンドに誘われ、ポール・レイモンドは、イギリスに戻ってからUFOのメンバーと再会し食事をしながジャム・セッションを行っています。その3日後正式にUFOからポール・レイモンドにオファーがあり、正式にポール・レイモンドはUFO に加入します。バック・コーラス、ギター、キーボードをこなすポール・レイモンドのポテンシャルはUFOのメンバーが目論んでいた以上のマッチングを見せたそうです。また、ポール・レイモンドのギターは透明感があり、マイケルのサウンドを補完するにはベストな状態だったそうです。マイケルにとってもポール・レイモンドはスーパー・サブだったのでしょう、このあとのMSGでもポール・レイモンドはメンバーに入っています。これで、フィル・モグ(Vo)、ピート・ウェイ(B)、アンディ・パーカー(Ds)、ポール・レイモンド(Key/G)、マイケル・シェンカー(G)というUFO全盛期の黄金時代のメンバーが出揃います。

■重 圧  1976~1978

1976年7月1日キーボードだけでなく、バック・コーラスやリズム・ギターも弾けるポール・レイモンドが加入します。ポール・レイモンドを加えたラインナップがUFO黄金期と言われています。1977年 1月から3月にかけてロンドンのAIR Studiosでニューアルバムのレコーディングが開始されます。このアルバムからプロデューサーにロン・ネヴィソンが起用され、1977年5月「Lights Out」をリリースします。そして、5月下旬から全英ツアーがスタートしたそうです。UFOはこのアルバムにアメリカの進出を賭けていました。しかし、7月から始まる全米ツアーの直前の全英ツアーの途中で、またもマイケルは「失踪」してしまうのです。急遽、UFOはこのアクシデントを乗り切るためにかつてUFOに在籍していたポール・チャップマンにコンタクトを取り、ゲスト・ギタリストとしての参加を依頼したそうです。しかし、ポール・チャップマンが当時、在籍していた「ローン・スター」のライヴ・スケジュールがUFOの全米ツアー後半と重複してたので8月下旬までならという条件付きで、7月3日からマイケルの代役として務めることになります。UFOは何とかツアーを乗り切ります。もちろんファンはマイケル・シェンカーのPlayを見るためにチケットを購入しているわけですから、騒然となったそうです。マイケルはその当時、心身の疲労がピークに達していて精神と肉体のリラックスを求めアルコールだけでなくコカインなどのドラッグにも手を出していたそうです。当初からのバンド内の人間関係やフィルを中心とした封建的な関係、さらにレコーディングとツアーの連続で心身共に限界の状態で、マイケルにとっては苦痛で仕方がなかったのでしょう。そして、マイケルはビジネス的な成功や有名になりたいわけでなく、自分が目指すものに突き進みギタープレイの鍛錬に励んできたのだと思われます。もちろん背景には偉大なギタリストになりたいという夢は抱いていたと思われますが、22歳という若さで性格も敏感でデリケートな所があり突然の人気上昇、ギタリストとしてクローズアップされます。また「神」と崇められ、そのプレッシャーに押しつぶされマイケルはバンドから逃げ出してしまったのだと思われます。「失踪」です。マイケルは、彼女(妻?)のガーヴィと南フランスでスクーターを購入しバルセロナを経てタラゴーナを北上しドイツへ入ります。ある日、フィルの元に警察から連絡が入りマイケルがドイツでスピード違反で捕まったことが分かります。そして、ミュンヘンについた頃、マイケルは自分の機材がどうなったか確認するためにピートに電話をかけたそうです。その時、ピートに戻ってくるように説得され、その後、8月下旬にUFOのメンバーの前に姿を現しています。そして8月26日レディング・フェスティバルのバック・ステージに彼女(妻?)のガーヴィとマイケルは姿を現したそうです。出演予定のローン・スターのポール・チャップマンにUFOをサポートしてくれたお礼に訪ねたのです。ポール・チャップマンも笑顔で話す様子があったそうで二人の間にしこりはなかったそうです。一方、「Lights Out」のセールスは相変わらず好調で、全米チャートで23位にまで昇るヒットとなりました。アメリカのマーケットに王手をかけたUFOはアメリカのLAでレコーディングされた「OBSESSIONS」を1978年6月にリリースします。早速6月、全英ツアーから始まり、伝統のロンドンHammersmith Odeon公演を含めイギリスでの人気も確立しつつありました。次はアメリカです。このアルバムから「Only You Can Rock Me」がシングル・チャートを急上昇し、全米ツアーもいたるところでソールド・アウトが連続したそうです。この全米ツアーの模様はライブ・アルバム「STRANGERS IN THE NIGHT(UFOライヴ)」(1979年1月リリース)に収録されています。しかし、このアルバムが出た時にはマイケルはもうすでにUFOにはいませんでした。

■失 踪  1978~1979

マイケル・シェンカーは、1978年12月に再度UFOから失踪し、そして再び戻ってくることはありませんでした。UFOとしては順調にアメリカに進出し、これからだというところで失踪したマイケルは限界を超えてしまっていたのでしょう。フィルのワンマンぶりをマイケルは快く思っておらず、バンド・ミーティングを欠席することも、しばしばあったそうです。マイケルはミーティングでUFOの体質改善を要求し、ハードなスケジュールをとらないこと、トラブルに関しては民主的な解決方法を取ることなどだったそうです。しかし、その約束はマイケルにとって守られてはいなかったそうです。それを条件に「失踪」からUFOに復帰したマイケルにとっては約束を裏切られたという思いになっていたのではないでしょうか。また、フィルはマイケルの変わった性格にうんざりしていたともいわれています。板挟みになっていたピートはフィルとマイケルは常に衝突し口論になっていたと言っています。そして、1978年のツアー終盤にフィルとマイケルの間にその緊張感が高まりフィルがマイケルに対し暴力を振るったとされています。これはマイケルが後に語った話だそうですが、フィルは相手構わずケンカばかりしていたそうです。フィルに「もし俺に向かってきたら、バンドを辞めるぞ」とマイケルが言うとそれが本気かどうか確かめるために、何の理由もなくマイケルに殴りかかったそうです。最悪です。一方、全米ツアーは爆発的人気で盛り上がっていました。クリサリスとしてはこの盛り上がった時期を逃しません。ライヴ・アルバムの制作を画策します。実は「Lights Out」を発表した後、続いて2枚組のライヴ・アルバムのリリースを計画していたそうです。1977年の全米ツアーの模様を収録して発売しようと考えていましたが、マイケルが失踪しギタリストはゲスト参加のポール・チャップマンであったことと、「Lights Out」がヒットしたことでファンもきっと新しい曲を待ち望んでいるだろうと考え、アルバム制作を優先し、その後ライヴ・アルバムを発表しようという結論になっていたそうです。予想通り「OBSESSIONS」は「Lights Out」に続くスマッシュ・ヒットとなるアルバムになりました。レーベルとしては素早くライヴ・アルバムをパッケージしたいためツアー中であるにも関わらずバンドメンバーをスタジオに送り込みリミックス・その他の作業が開始されたそうです。バンドの本拠ロサンゼルスでマイケルは塞ぎ込んでいたそうです。それはフィルとの暴力事件とライヴ音源をリミックスする作業に不満を訴えていたからだとされています。プロデューサーのロン・ネヴィソンはメンバーに対して横暴な態度や振る舞いをする人物だそうで、それは いつも酒に酔って暴れている若いUFOメンバーを1つに束ねプロデュースしていくためだったのではないかと思われます。それと同時にマイケルにとってロン・ネヴィソンは唯一の相談役であり、保護者的な存在でもあったそうです。そのロン・ネヴィソンとマイケルはことごとく、意見が合いません。マイケルはギタリストとして目指すサウンドやストイックな性格もあり納得いく作品にしたいという思いが強く、細かいところまでこだわりがあったのでしょう。ロンはこのライヴ音源にダビングを施し疑似ライブ盤としてリリースしようとしたそうです。しかし、マイケルはそのままで発表すべきだと主張します。また、多数ある音源の中からベスト・テイクが選抜されていないことに疑問を投げかけますが納得いく回答が得られないなど、マイケルの意向や主張はほとんど拒否されたそうです。マイケルからすると、何か1つでも希望や要望を取り入れる事を検討すれば相互の関係も成り立つものの、ロン・ネヴィソンや他のメンバーと全く折り合いがつかずマイケルはリミックス作業の途中であるにも関わらず話にならないということで、ロンドンへと帰ってしまったそうです。裏切りとフィルとの暴力事件、その他これまでのストレス要因の数々。蓄積されたすべてをこのライヴ・アルバム制作におけるプロデューサーとの意見の相違が引き金となって「失踪」&「脱退」に行き付いたのではないでしょうか。マイケルは再び戻ってくることはありませんでした。しかし、マイケルはUFO脱退後、密かににロン・ネヴィソンとロサンゼルスで会って、今後の身の振り方の相談をしていたそうです。このことから鑑みてリミックス作業の話し合いの行き違いそのものが失踪の原因ではなく、それ以前にUFOでのストレス要因の蓄積のものだと推察できます。マイケルはその後もロン・ネヴィソンとの親交は続けていたそうです。そして、マイケルを脱退に導かせた張本人のフィルは後のインタビューで「マイケルの脱退はショックだった・・・」と語っています。ピートの話によれば、その数年後、エディー・ヴァン・ヘイレンに会った時、マイケル・シェンカー後任のオーディションを受けたかったが、マイケルの穴を埋める自信がなかったと語っていたそうです。マイケルが去った後、ギタリスト不在のままライヴ・アルバム「STRANGERS IN THE NIGHT(UFOライヴ)」(1979年1月リリース)を完成させます。UFOのベスト盤と言ってもいいような選曲で、皮肉なことに全米チャート42位、全英チャートにおいては7位を記録し、UFOの最高ランクをマークしたのが「STRANGERS IN THE NIGHT(UFOライヴ)」(1979年1月リリース)でした。過去のシングル・カットされた曲「Doctor Doctor」までチャート・インする大ヒットとなります。このライヴ・アルバムをサポートするツアーを行えば大ブレイクする事は間違いありません。しかし、もうマイケル・シェンカーはいません。UFOには後任として何度かヘルプとして参加していたポール・チャップマンが加入しバンド活動を続けていきますがマイケルが在籍していた時以上の成功は得られませんでした。

■不死鳥  1979~1981

マイケルはUFOから失踪&脱退し、アルコールとドラッグで心身共に憔悴しきった状態でLAを経由して本能のようにドイツのハノーバーに戻ります。故郷で静かな生活を送り、心と体を休めていました。マイケルが新興宗教(カルト集団?)「ザ・ムーン “moomnies”」の一員になったと伝えられたのも、この頃だそうです。後に、このことに関してマイケルは多くを語っていませんが「健康を取り戻すために現実を把握したかったから ザ・ムーン に入った。」「新興宗教とは違うんだ。自分の生活を健康的に導くクラブなんだ」とも言っていたようです。兄のルドルフもマイケルがUFOに在籍している時に追い込まれていることを心配して何度かロンドンに訪れ彼の話に耳を傾け助けようとしました。しかし、その頃からマイケルの奇怪な発言や行動が目立つようになり、UFOを正式脱退しハノーバーに戻って来た時は暖かく迎えたそうです。そしてマイケルもルドルフを頼ったそうです。その時、偶然にもスコーピオンズは、新しいアルバム「ラヴ・ドライヴ」のレコーディングを行っており、ルドルフの提案により、あくまでもウリ・ジョン・ロートの後任として加入したマティアス・ヤプスをサポートする形でスペシャルゲストとして3曲のレコーディングに参加しています。この兄ルドルフの提案にマイケルは心から喜んだそうです。これをきっかけにマイケルはルドルフにスコーピオンズ復帰を願い出たそうです。メンバー全員に暖かく迎え入れられたマイケルはスコーピオンズの一員として「ラブ・ドライブ・ツアー」に参加してヨーロッパ各地を巡演します。マイケル、マティアスという豪華なツインリード・ラインナップは「ラブ・ドライブ」の素晴らしい出来も手伝って、従来のファンを熱狂させるだけでなく、新しいファンの獲得にも成功しました。しかし、この頃のマイケルは自分の身体がどういう状態になっているのかを判断できなくなっていたと思われます。アルコールとドラッグに依存している自分は、いたって普通なんだと思い始めた矢先に問題が生じます。1979年6月に予定されていたスコーピオンズ2度目の来日公演に臨もうとしていたその直前にマイケルは極度の疲労から倒れてしまいます。復帰を試みますが再度、倒れてしまいます。医師の診断では神経性過労ということでした。これにより正式にマイケルはスコーピオンズを脱退が決定します。残念ながら来日公演ではマイケル&ルドルフの兄弟の共演は実現しませんでした。ルドルフも「残念だった。もうどうすることもできなかった。グループを去る以外に方法がなかった。」マイケルは絶望の中にいました。そして自分は「病気」であることに気づき自ら専門の医療機関を訪れたそうです。それと同時にマイケルは極秘にソロ・プロジェクトにも着手し始めていました。おそらく、今までの経緯を考えバンド活動の中で自分が求める理想や方向性をコントロールできるのはソロでの活動がベストであるというところに行きついたのでしょう。頻繁にルドルフを始めスコーピオンズのメンバーとは連絡を取り、マイケルは2ヶ月間にわたり休養をとりながら何度もスタジオに入り1人でデモ・テープ作成に励んだそうです。そのテープに入っていたのは「Into The Arena」や「Armed And Ready」の原曲だったそうです。そのテープをルドルフに聞かせたそうです。その時、ルドルフはスコーピオンズのイギリス・サイドのマネージャーのピーター・メンチをマイケルに紹介します。そして、後にマイケルのマネージャーを担当することになります。そして、マイケルはピーター・メンチにデモテープを預けクリサリス・レコードに渡されました。反応は悪くなかったそうです。クリサリスともソロ契約を交わしスタッフも交えてメンバーの人選も進めていきます。そして、マイケルがロンドンのクリサリス・レコードのオフィスを訪れたとき、そこにたまたま「Frazer Nashbut」という曲のデモテープがおいてあったそうです。それをマイケルが聴いて「これはいったい誰?ビブラートがいいね」と言ったそうです。そのテープの声がゲイリー・バーデンだったそうです。ゲイリー・バーデンは当時、売れないミュージシャンで、マイケルからの要請に心から喜んだそうです。(ボーカル)元フレイザー・ナッシュのゲイリー・バーデン、(ドラム)元モントローズのデニー・カーマッシ、(ベース)元タラスのビリー・シーンに決まりリハーサルも開始。あとはレコーディングをスタートさせるところまで来ていたそうです。ところが、この大事な時にマイケルにとんでもない症状が現れます。医者からもらった薬をアルコールで飲んでいたため、その強烈な副作用として度重なる幻覚症状に悩まされていました。「OBSESSIONS」をリリースした後のツアーに出るときに断酒しようと考え、イギリス国内の医師に錠剤を処方してもらうのですが「Heminevrin」という強い薬で非常に常習性のあるものだったそうです。マイケルは服用してもあまり効果がなかったのでステージに上がる前にビール2,3本飲むようになるのです。その組み合わせが致命的であることをマイケルは知りませんでした。ついにマイケルはロンドンの自室で愛用のフライングVをこなごなに叩き壊し、ソファーもナイフで切りつけ、ガラスを叩き割り、自慢の金髪を切り落とし、奇怪な行動をとるようになったそうです。翌日、マイケルの部屋を訪れた友人は、あまりにもひどい有り様で「マイケルは気が狂った」と叫んだそうです。その友人というのはゲイリー・バーデンだったそうです。マイケルは、その後ドイツのスペシャリストのいる隔離病棟で3ヶ月間の治療を受けることになります。当然、ソロプロジェクトのレコーディングも中断したわけですからビリーやデニーなどのメンバーも一旦、白紙に戻ります。1980年4月マイケルは退院し健康を取り戻しロンドンに戻ってきます。マイケルを待っていたのは、マネージャーのピーター・メンチとゲイリー・バーデンでした。マイケルはゲイり―・バーデンが待っていてくれたことに感激しゲイリー・バーデンと一緒にやろうと固く決心したそうです。そしてマイケルはツアーの計画は立てず、単なるソロ・アルバム制作に専念することにしました。要するにゲイリー・バーデン以外のプレイヤーはセッション・ミュージシャンを起用することを考え、ソロ・プロジェクトを再開させたそうです。プロデューサーにマーティン・バーチに協力を要請したそうですがスケジュールの調整が上手くいかずロジャー・クローバーの名前が挙がりマイケルはロジャー・クローバーに決めます。そしてロジャー・クローバーと同じレインボーの所属するドン・エイリ―をキーボード・プレイヤーが選出されました。これで(ボーカル)ゲイリー・バーデンに加え(ドラム)サイモン・フィリップス、(ベース)モ・フォスター(キーボード)ドン・エイリ―、(プロデューサー)ロジャー・クローバーの布陣がそろいます。マイケル・シェンカー・グループの誕生です。1980年5月ロンドンのウェセックス・スタジオでレコーディングが開始されたそうです。1980年8月「THE MICHAEL SCHENKER GROUP 帰ってきたフライング・アロウ」をリリースします。その後、ピーター・メンチのアイディアでこのプロジェクトを本格的なバンドへと発展することになります。当初、マイケルはツアーの計画は立てず、単なるソロ・アルバム制作に取り掛かるだけだと考えていたのでプロモーション・ツアーとなると途端に拒絶をしたそうです。しかし、ファンが待ち望んでいることを説明しピーター・メンチはマイケルの説得に成功します。そうするとツアー・メンバーを捜すことになります。現在はヴォーカルのゲイリー・バーデンだけです。その頃、UFOではマイケル脱退後の1979年にはギターにポール・チャップマンを加え「NO PLACE TO RUN」(1980年リリース)を制作するも、ポール・チャップマンのギターをメインにし、ポール・レイモンドのキーボードを脇に追いやってしまいます。マイケルがUFO脱退という大きな事件によって、それまでUFO 5人で保たれていたサウンドの黄金比がこの段階で崩れてしまっていたのだと思われます。ポール・レイモンドは1980年2月に行われたUKツアーを最後にUFOを脱退します。この時期にマイケルサイドからアプローチはあったそうですが当時のメンバーではうまく事が運ばないと思ったポール・レイモンドは一旦、その話は断っています。しかし、1980年8月頃にマイケルとポール・レイモンドが行動を共にすることが多くなり、それをきっかけにツアー・メンバーに加わります。そして、オーディションによりベースのクリス・グレンが加わります。そしてドラムにレインボーを脱退したコージー・パウエルの名前がメンバーに浮上したそうです。コージーは自身のソロ・ニューグループの結成やゲイリー・ムーアとのグループ結成なども視野に入れ次のステップを模索していたそうです。マネージャーのピーター・メンチはインパクトのあるメンバーでツアーを始めたい考えがあり、そのためにもコージーの人気を必要としていました。ベースのクリス・グレンはマイケルのメンバーに加入するとき、断るつもりだったそうですが、メンバーにコージー・パウエルが加入するような噂を聞きつけ、クリスはコージー・パウエルに電話をして直接確認したそうです。クリス・グレンの加入はコージーが入るならという条件があったそうです。そして、肝心のコージーは自らのグループのメンバーを捜すのに苦労している時、ベストなタイミングでピーター・メンチはコージーにラヴ・コールを送り続けていたそうです。コージーはリハーサル・スタジオに姿を現しメンバーに加入します。(ギター)マイケル・シェンカー(ヴォーカル)ゲイリー・バーデン(ベース)クリス・グレン(キーボード・リズムギター)ポール・レイモンド(ドラム)コージー・パウエルのメンバーでリハーサルを行い全英・全米ツアーに旅立ちます。とりわけ全米ツアーではサザン・ロック・バンドのサポートに起用されるなど状況は苦しく、プロモーターはマイケル・シェンカーをよく理解してなかったのか、二つのサザン・ロック・バンド間でプレイすることになり、結局この全米ツアーは大成功というわけにはいきませんでした。マイケルは1981年に入りセカンドアルバムの制作に着手し始めます。それと同時に1981年8月には初来日を果たしています。1979年6月UFO、スコーピオンズの来日の時はマイケル不在ということで、マイケル・シェンカーの来日をファンは待ち望んでいたので日本公演ではかなり盛り上がりました。そして、このメンバーでMSG 2枚目のアルバムを1981年に「MSG-神話」をリリースします。さらに同年、初来日した日本公演の模様を収録したライヴ・アルバム「ONE NIGHT AT BUDOKAN」をリリースします。対外的に見ればMSGの活動は順調に前進しているように見てとれますが、実はこの時すでに水面下でコージーとマイケルの間には目に見えない確執が起きていたのです。

■孤 立  1981~1982

MSG 神話」(1981年リリース)の制作でマイケル・シェンカーはUFO時代のプロデューサー、ロン・ネヴィソンを起用します。元々、マーティン・バーチの名前が挙がっていたそうです。彼が手掛けたレインボーの「Long Live Rock ‘N’Roll-バビロンの城門」を聴いた時、コージーのドラム・サウンドがベストと感じからだそうです。しかし、彼のスケジュールが取れなかったことで、後期UFOを手掛けたロンの名前が浮上したそうです。しかし、メンバーはロン・ネヴィソンの起用に反対していたそうです。ロン・ネヴィソンはアメリカ人でアメリカのマーケットに通用するサウンド作りは長けているものの、やはりイギリス人のプロデューサーを起用するべきではないかという事だそうです。ちなみにコージー・パウエルはこのプロデューサーの起用の件は直前まで知らないままだったそうです。そのレコーディングなのですがトラック・ダウンまで、なんと約半年もかかる事態となるのです。完璧主義のロン・ネヴィソンはリズム・トラックを収録するのに1ヶ月以上もかけていたそうです。コージー・パウエルはレコーディング中、ロン・ネヴィソンと口論をしています。コージー・パウエルのリズム・レコーディングは1週間もかかったというのです。毎日7~8時間スタジオに入りドラムをたたくのです。「こんなにたたかないと俺の音は録れないのか!」と怒鳴ったそうです。コージー・パウエルのソロ・アルバムのレコーディングではセッション・ミュージシャンとレコーディングしたのにもかかわらず1日で終えていたという話があり、比べて1週間7~8時間もかけるとなるとコージー・パウエルが怒鳴るのも納得がいきます。このようにレコーディングに時間がかかっていたため途中に野外フェスティバルの出演や日本公演を行っています。1981年 8月12日(東京 日本武道館)、14日(名古屋)、17日(福岡)、19日(大阪)、20日(京都)で、とりわけ大阪では昼夜2公演をという日程でした。マイケル・シェンカー初来日です。過去、UFO、スコーピオンズで来日のチャンスはあったものの直前で実現できず、日本のマイケル・シェンカー・ファンにとってはやっと実現できたという思いで、それはそれは盛り上がりました。来日中、コージー・パウエルは体調不良(風邪&軽度の食中毒…本人曰くJALの機内食にあたったそうです。)で最悪のコンディションだったそうですが、最高のライヴ・パフォーマンスを披露しています。後にコージー・パウエル本人は最悪のコンディションだった。50%のパフォーマンスしか発揮できなかったと言っています。そして、日本公演を終えてイギリスのツアーへ移ります。そのツアーの後半にマイケルとコージー・パウエルが口論になります。原因はコンサートのコンセプトに関係したことだったそうです。ギグに関する意見が食い違い、初めは話し合っていたそうですが、次第にお互い激しく言い争う状態になったそうです。それがきっかけで、結局マイケルはその後のコンサートをキャンセルしてしまうのです。このコージー・パウエルとマイケルの口論の根幹はセカンド・アルバム「MSG 神話」の制作にまつわることだったそうです。とにかく時間を費やしたレコーディングで、やっとミックス・ダウンまでたどり着いたという状態でそのサウンドを聴いて、コージー・パウエルは愕然&憤慨したそうです。何のために1日7~8時間もドラムをたたいていたのか。ロン・ネヴィソンは自分の意見を押し通してアルバムを起伏のない軽く平坦な耳障りのいいサウンドに仕上げてしまったそうです。コージー・パウエルはもっとダイナミックな音作りを考えていたそうです。コージー・パウエルのドラミングは激しい起伏があって、常に意識して叩いてるドラムが全く表現されていなかったそうです。マイケルの創った曲は荒々しさと情緒的に静かな感性が同居していて、それらにフィットするよう強弱のコントラストを加えたドラミングを考えていたのにもかかわらず出来上がりは、本人曰く「とてもハード・ロックと呼べるサウンドじゃなかった・・・」と言っていたそうです。後のインタビューで「あの野郎とは2度と関わりたくねーよ。まったく大バカだぜ!」と言っていたそうです。他のメンバーもロン・ネヴィソンを起用する際にイギリス人のほうが良かったのではと言っていたこともあり複雑な心境だったと思われます。何より沈んでいたのはマイケルだったのではないでしょうか。自分がロン・ネヴィソンを起用して、さらにマイケルにとってはUFO時代からの公私とも信頼を寄せているロン・ネヴィソンの最悪な仕事内容の結果が今、大問題になっているわけですから。しかもレコーディングに予想以上の日数を費やして費用も予算をはるかにオーバーしてクリサリス・レコードがマスター・テープの到着を待っている状態で、とてもミックス・ダウンのやり直す時間もありませんでした。万事休す。コージー・パウエルとマイケルの口論の発端はそれらの話からマイケルのバンド・リーダーとしての統率力と自覚、責任感に関しての事に移行していったそうです。コージー・パウエル曰く「彼は常に誰かに頼っている」一方マイケルは「グループ・ボスになろうと思わない。僕は常に聞き役でいようと思っている。僕はグループの中の一員というスタイルが一番適している・・・」と言っています。正反対です。このように話し合いが口論になるのも無理はありません。そして、ミックス・ダウンやり直しもないまま1981年9月「MSG 神話」がリリースされます。そして、その騒動に輪を掛けるようにマネージャーのピーター・メンチのスーパーバンド志向のコンセプトから、ゲイリー・バーデンを力不足と判断し解雇してしまうのです。さらに、それに続いてポール・レイモンドのポジションを重要視していなかったピーターメンチはポール・レイモンドまでもMSGから追い出してしまうのです。ポール・レイモンドもこれらの騒動に嫌気がさして自ら出て行ったとも言われています。もう、こうなると負の連鎖が止まりません。マイケル・シェンカー・グループは最大のピンチを迎えることになります。しかし、ここでコージー・パウエルが動きだすのです。コージーはMSGの内部改革か脱退かを急いでいたそうです。コージーのアイディアはMSGをより強力にするためにデヴィッド・カヴァーデール(Vo)を加えるというものでした。そこで、マイケルとデヴィッドは一度ミーティングを行っています。しかし、デヴィッドは参加を断っています。その代わりに作曲面で協力するということになり1曲をMSGに提供するという結論に至りますが、この企画はMSGがピーター・メンチの下を離れ、元ホワイト・スネイクのオフィスと契約したことで立ち消えます。当初、デヴィッドとそのオフィスはトラブルの真最中で裁判をしているところだったからです。次にコージーはグラハム・ボネット(Vo)に声を掛けMSGへの加入を打診します。後の1982年3月5日正式発表を兼ねて行われたMSGの「ヴァージン・メガストア」に於けるサイン会でのインタビューでグラハムは「最初に聞いたのはクリスマス前でジェニー・ハルサル(コージーのパブリシスト)がパーティの席上で ”コージーと話していたんだけど、MSGが新しいヴォーカリストを捜しているわ。やってみない?” と言ってきたんだ。そこで僕は “ずーっと前からやりたかった。” でもゲイリーがいるし、ヴォーカリストが2人いるのもちょっといきすぎだからね。もちろん、彼らと話し合ってみたいよ。」と言っていました。そして、レインボーで一緒に活動していたコージーがいるならと、MSGの加入を決意します。しかし、ここから話が複雑になってくるのです。水面下でデヴィッドがコージーを引き抜こうとしていたのです。それは、何とコージーがグラハム・ボネットをMSGに迎え入れた直後だったので、さらにややこしくなります。結局、コージーはMSGにグラハムを残したまま断腸の思いで脱退してしまいます。コージーは新生ホワイトスネイクの再結成のためにデヴィッドと共に立ち上がったわけです。MSGはクリス・グレン(B)の旧友テッド・マッケンナ(Ds)をグループに迎えることで突然のコージー・パウエル脱退の危機を乗り越えます。テッドはロンドンにあるバーでマイケルと会い、リハーサルを行いMSGに加わっています。しかし、グラハム・ボネットにとっては話が全然違います。到底納得がいきません。プロデューサーに念願のマーティン・バーチを迎えます。何とか1982年「ASSAULT ATTACK 黙示録」のレコーディングをフランスにあるル・シャトー・スタジオで行います。グラハムは、この頃からコージーがいないのであれば「脱退」という影がチラチラし始めます。グラハムの気持ちは揺れ動き、1982年8月、ついにイギリスのレディング・フェスティバルを控え、直前のシェフィールド・ポリテクニックで行われたギグを最初で最後のライヴとして脱退することになるのです。約600人の観客でシェフィールド工業芸術大学でのギグでした。ステージ上のマイケルとグラハムは険悪なムードで、とりわけグラハムは泥酔状態だったそうです。所説あるそうなんですがどうやらステージング前に二人は激しい口論があったそうです。ギグの選曲をめぐり、新曲中心か古い曲で構成するかなどだったそうです。そして、このギグに関しては謎となっていることが多いのです。イギリスのケラング誌が報じたところによると、グラハムがマイケルのローディで、時々リズム・ギタリストも兼ねるスティーヴ・ケイシ―を定位置である、アンプの陰から引っ張り出して「あのドイツ人に弾けないソロは全部こいつが弾いてるんだ」と言った後「くだらない曲(クライ・フォー・ザ・ネーションズ)だけど、これを歌わないとクビになる」と言ったそうです。それを聴いたMSGの新たに昇格したロード・マネージャー、ロブ・クックジーは激怒してグラハムをステージから降ろそうとしたのですが、そこでなんとグラハムは性器を露出したそうなんです。後にアルカトラスを結成したグラハムは、この時のことをケラング誌にこのように語っています。「ぐでんぐでんに酔っぱらって、頭がボーっとしてたんだ。自分が何をしているのかわからなかった」。ケイシーの件については「僕はただ、みんなに挨拶するよう彼に頼んだだけさ」そして「・・・まったくバカなマネをしたもんだ」と言っていたそうです。マイケルもそのことについて1982年12月8日イギリスはバーミンガム・オディオンのコンサートが終わって、ある雑誌のインタビューで、こう話しています。「グラハムは何も悪くなかった」と・・・。「ASSAULT ATTACK 黙示録」レコーディング中、グラハムは非常にナーバスになっていたそうです。それを感じたマイケルはずいぶんとグラハムへのサポートにエネルギーを注いだそうです。「Come on Graham ! Come On」と言ったように元気づけようとしたそうです。そのうち、クリスがその役目を引き受け、クリスの後はマーティン・バーチがそれをフォローしたそうです。そして、マイケル曰くグラハムの不安定は病気であったと述べています。グラハムがゲイリーのヴォーカルを覚えなければならなかった時、グラハムは出来なかったそうです。マイケルは、そのことに共感しています。スコーピオンズに入った時、他者のギターのリフをプレイしたくなかったと言っています。その分、グラハムの気持ちは同じような経験をしている事から、他の人よりわかるとマイケルは言っていたそうです。この歌詞を覚えられないことにグラハムも後に「歌詞を覚えるのが苦手で、レインボー時代からステージに歌詞カードを置くことが多かったが、これは長年のアルコール依存症で脳が悪影響を受け、記憶力に問題があるんだ」と自身で述べています。アルカトラスの「Too Young To Die, Too Drunk To とLive」はアルコール・ドラッグについて綴った歌詞であり、「Will You Be Home Tonight」はアメリカで飲酒運転撲滅キャンペーンにも使われていました。また、インペリテリの『Stand In Line』に収録されている「Secret Lover」も酒のことを比喩的に綴った歌詞だそうです。ちなみにその後の2004年からは断酒していると告白しています。そして。アルコール依存症は完治したとも述べています。また、マイケルは、シェフィールドのトラブルについてイギリスの音楽雑誌に書かれている内容は全くのでたらめだと言っています。グラハムはステージ上でマイケルがドイツ人であるからと言って悪口なんて言わなかったと・・・そして、グラハムはあのシェフィールドのコンサートの2日前にてんかん発作を起こしていたというのです。グラハムが泥酔いであったことは本人も言っており、マイケルが言っていた2日前のてんかん発作、どれも事実だとして同じステージを客観的な見方によっては「歌詞を覚えられない問題」「コージー・パウエルの脱退」「ステージの選曲の問題」様々な要因が引き起こしたのだと考えられます。そして「ローディーをアンプの陰で演奏させていた問題」に関して、実際キーボード奏者のアンディー・ナイも隠して演奏させていたことも判明します。これは後にマイケルは「サウンドに厚みを加えるために2人のサイドマンを使うかもしれない」と言っていたそうです。「ステージに多くのメンバーはいらない。」という事だそうです。マイケルはポール・レイモンドの穴を埋める人材が必要だと考えていたのではないかと考えられます。しかし、グラハムはこの案に大反対だったそうです。その方法論についてトラブルが元々あった上での選曲をめぐる口論だったのではないでしょうか。それがステージ上で爆発的な行動になり、泥酔いしたグラハムが愚行を繰り広げたのだと思われます。グラハムはそのままロンドンに帰っています。この日を最後にグラハムは解雇されています。翌日のレディング・フェスティバルのステージには解雇されたゲイリー・バーデンが立ち、ファンばかりか関係者をも驚かせたそうです。ゲイリーはオープニングで「サプライズ、サプライズ」と言いていたそうです。その模様は CD「BBC RADIO ONE LIVE IN CONCERT」(1993年リリース) や「Walk the Stage~Offcial Bootleg Box Set」(2009年リリース)のDisc4に収録されています。後日談ですが、ゲイリー曰く当時のマイケルのマネージャーのロブ・クックジーがゲイリーに泣きながら助けてくれ~と電話してきたそうです。ゲイリーもそれに応えたわけですが、ゲイリーもマイケルと一緒に書いた曲は問題なかったそうですが、新曲は1日で覚えなければならなかったのでゲイリーも必死だったそうです。レディング・フェスティバルは大雨だったのにもかかわらず観客は誰も途中で帰らず最後まで観てくれたと、後のインタビューでゲイリーは言っています。このようにレディング・フェスティバルを綱渡りのように何とか終えますが、マイケルの前を問題が次から次へと起こっていきます。グラハムが去ってしまったことでレコーディングを完了させていた「ASSAULT ATTACK 黙示録」をどうするのか。ボーカル・トラックの録り直しをするには資金も時間もありませんでした。最終的には妥協案としてニューシングル「Dancer」のvideoにはゲイリー・バーデンが登場して、アルバム「ASSAULT ATTACK 黙示録」はオリジナル・フォーム(グラハム・ボネット)のまま1982年10月にリリースされたそうです。

■失 墜  1982~1984

レディング・フェスティバルの後、前日のシェフィールドでの「グラハム発言」でMSGはいくつかのゴシップを誕生させます。プレス関係者にいろいろ書き立てられます。ドイツ人のフォト・ジャーナリストのフランク・エッセンが撮影した「もう一人のギタリスト」の写真が発表されたり、オランダのジャーナリストのヴァラク・ヴァン・ダー・ウィーンが「アンプの後ろを見たが誰もいなかった」「ギタリストはマイケル1人だけだった」とリポートしたり、「ドラムの後ろでもう一人ボーカリストをスタンバイさせ歌わせていた」とか・・・どれもMSGにとって良くない内容ばかりで報道合戦が繰り広げられていました。「グラハム発言」から出た「もう一人のギタリスト」についてはマイケルも対応に疲れ果てていました。そして、新たな道を切り開くべく、マイケル・シェンカー(G)、ゲイリー・バーデン(Vo)、クリス・グレン(B)、テッド・マッケンナ(Ds)、アンディー・ナイ(Key)のメンバーを確定させ新しいアルバムの制作に入ります。マイケルは「ASSAULT ATTACK 黙示録」発表後にマネジャーのロブ・クックジーとは契約を解消し所属マネージメントなしの状態になったそうです。その状態で「BUILT TO DESTROY 限りなき戦い」の制作に入ります。まずスタジオを捜さなければなりません。マイケルはドラマーのテッド・マッケンナにスタジオの確保を頼みました。テッド・マッケンナはリッジ・ファーム・スタジオというスタジオを捜しあて「BUILT TO DESTROY 限りなき戦い」のレコーディングに入ったそうです。プロデュースは、ルイス・オースティンとMSGが共同で行われたそうです。アルバムは日本と英国の同時発売という形で1983年 9月にリリースされることになります。そして、マイケルはアメリカへの本格的な進出を目論んでいました。しかし、所属マネジメントもないままで頭を悩ませていたそうです。そこで「MSG 神話」を発表した時にアメリカ・サイドのマネジメントを担当していたレーバー&クレブスとマネジメント契約のために8月ニューヨークに行きました。レーバー&クレブスはマイケルのマネジメントを引き受ける条件としてサイド・ギターを加え、マスター・テープをもう一度リミックスすることだったそうです。マイケルはこの条件を承諾しました。そして、サイド・ギターとしてレーバー&クレプスが推薦したのが、デレク・セント・ホルムスでした。そして、リハーサルを行いマイケルとデレクはリミックスをスタートさせたそうです。アメリカ盤はプロデューサーにジャック・ダグラスを起用します。ニューヨークでリミックスを済ませたマイケルはデレクを連れてロンドンに戻り6人編成のMSGでリハーサルを開始しました。結局、初回の「BUILT TO DESTROY 限りなき戦い」リリースから途中でデレクの参加したヴァージョンの2種類のアルバムがリリースされることになります。なんだか行き当たりばったりのようですが何としてでもアメリカで成功してやろうというマイケルの意気込みが感じられます。しかし、この後のツアーでトラブルが発生するのです。グラハムがシェフィールド・ポリテクニックで行われたギグで、ローディのスティーヴ・ケイシ―をアンプの陰でプレイさせていることを公表した「グラハム発言」を裏付けることになってしまうのです。その後の「BUILT TO DESTROY 限りなき戦い」(1983年リリース)の発表後に行われた全英ツアーでデレク・セント・ホルムスはサイド・ギタリストで参加しますが、全英ツアー終了後、ヨーロッパ・ツアーの途中で脱退します。その後任にジョン・ヴァリティを迎えましたがジョンは1~2回のギグで脱退します。そして、3度目の日本公演(1984年1月)の時には、元クローラーのテリー・スレッサーがなんとアンプの裏でバック・コーラスを歌っていたそうです。この一連の騒動でMSG内部の危機感は強まっていきます。グループ内でも不信感や混乱が生じ、その日本公演後にはマイケルの右腕と思われていたクリス・グレン(B)が1984年2月に脱退します。クリス・グレンは「UKツアーを終えて以来、メンバーがバラバラなってきた。本当の意味でグループであることを辞めてしまったんだ。」と言っていたそうです。バンドとしてのMSGよりも、マイケル・シェンカー個人を売りこもうとするマネージメントも原因の1つではないかとも云われていました。代わりに元ヘヴンのデニス・フェルドマンが加わったものの、次はゲイリー・バーデンもマイケルと口論になり脱退してしまうのです。MSGは実質「空中分解」状態に陥ってしまうのです。1984年夏前になると、日本のマイケル・シェンカー・ファンの間ではMSGのそれらの話が話題になりました。イギリスのモンスターズ・オブ・ロックを思わせる野外フェスティバル「スーパー・ロック’84  イン・ジャパン」にホワイトスネイク、スコーピオンズ、ボン・ジョヴィなどらとともにMSGも出演することが決まったからです。この時点でMSGにはマイケル・シェンカー以外に誰が残っているのか全く分かっていなくて、いったいどんなメンバーで来日するのか、ファンにとっては期待と不安の入り混じった気持ちで来日を待っていたそうです。そして、いざ当日を迎えフタを開けてみると「スーパー・ロック’84 イン・ジャパン」でのMSGは悲惨なものでした。メンバーの確保に苦戦していたのがボーカリストでした。ギリギリまで見つからず、主催者側からの推薦で新ボーカリストに元KGBのレイ・ケネディを迎えます。しかし、このレイがやらかしてしまいます。リハーサルを時間的に十分に行えず、セットリストを考案する段階からインスト曲を多く取り入れ、なるべくレイ・ケネディが歌わくても済むように配慮していたのにも関わらず、歌詞を覚えていない状態でステージに立ち歌詞カードをステージの床に貼って見ながら歌ったり、即興で歌詞を作って歌ったりとファンを失望させました。いわゆる「レイ・ケネディの悪夢」です。いちばん失望したのはマイケルではないでしょうか。そして、このフェスティバル以降MSGはロック・シーンから姿を消し長い沈黙期間に入っていきました。

■模 索  1984~1989

1984年 8月11日・12日 SUPER ROCK’84 IN JAPAN 西武球場で行われた日本初のヘヴィメタフェス。ホワイトスネイク、スコーピオンズ、、ボン・ジョヴィなどらと出演したMSGでしたが、4ヶ月さかのぼった4月の時点では、クリス・グレン、ゲイリー・バーデンが脱退し、実質空中分解状態でメンバーに誰が残っているのかも分かっていない状態でした。どんなメンバー構成で来日するのかマイケル・シェンカー・ファンにとっては一番の関心事でした。結局ボーカリストが決まらず、主催者側からの推薦でレイ・ケネディに決まりました。しかし、決まったのが来日直前でリハーサルは当日という準備不足で歌詞も満足に覚えていないという失態を演じマイケル本人のみならず、日本のファンをも失望させMSGの栄光は失墜します。そして、マイケルはロック・シーンから姿を消し、MSGも長い間、沈黙することになるのです。一時はマイケルは音楽を辞めたというウワサまで流れたほどでしたが、実は着々と新生MSGの準備をしていたそうです。マイケルを支えたのは弟思いの兄ルドルフだったそうです。過去をすべて清算すること、そしてマイケルが活動しやすいようにドイツ本国にマネージメントを移籍することをアドバイスし、マイケルはスコーピオンズと同じオラフ・ショレイターをマネージャーに迎えることを決めたそうです。思い出のハノーバの地でマイケルは再起を賭けて動き出します。メンバーを捜し始めると、そのマイケルの前に現れたのがロビン・マッコリ―でした。一説によるとテレビを見ていたマイケルがファー・コーポレーションというバンドで歌っていたロビンを知って、彼にアプローチしたらしいのですが、このロビンはNWOBHMで活躍した「グランプリ」の後期ヴォーカリストで、皮肉なことにMSGを去ったクリス・グレンが元モーターヘッドのフィル・テイラーと結成したGMTのメンバーとしても知られていたのです。マイケルはそのロビンが気になり、マネージメントを通して接触を試みます。ロビンはファー・コーポレーションを続けるかソロのの道へ行くか今後の進むべき道を考えていました。そして実際、マイケルとロビンが会った時、ロビンはドイツ語が話せて、優しい人物だとわかり、マイケルはロビンを気に入り意気投合し、ニュー・グループの結成を考え始めます。ほかのメンバーを捜すのに時間は掛かりましたがロビンの紹介で元ライオンハートのロッキー・ニュートン(B)とスティーヴ・マン(G)が加入します。ドラマーはオーディションを経てドイツ人のボード・ショホフ(Ds)を迎えラインナップが完成します。同時に「MSG」と名乗りながらマッコリ―・シェンカー・グループ(McAuley  Schenker Group)と読ませるグループ名に改名します。1986年に6曲のデモテープを制作した新生MSGはドイツEMIと正式に契約を交わし、1986年8月に予定されていたドイツ(ニュルンベルグ、マンハイム)とスペイン(バルセロナ他)のモンスターズ・オブ・ロックへの出演のためのウォームアップ・ギグをアイルランドで行います。4人のプロデューサーがリストアップされ、その中からアンディ・ジョーンズが選ばれましたが、彼はオートグラフとレコーディング中で、MSGは彼のその仕事を終わるまでは待たなければなりませんでした。念願のレコーディングがスタートしたのは1987年2月のことでデンマークでドラムだけを収録し、その後ハノーバ近郊にあるルドルフ所有のポーター・スタジオでレコーディングが再開されたそうです。ちなみに、話しが逸れますが、そのレコーディングを待っていたとされる期間に当てはまる1986年10月18日にマイケルとパメラ(元妻?)の間に2人目の子供のTAROが誕生します。話を戻しますが、ポーター・スタジオでレコーディングしたマスター・テープをLAに持ち込んで最終仕上げを行い、ファン期待のニューアルバム「PERFECT TIMING」がやっと1987年に完成します。ところがスティーヴ・マン(G)がプロデューサー業への転身したいと表明し(スティーヴ・マンの父親が危篤で父親のそばに居たい為、ツアーには参加できなかった為とも言われています。)MSGを抜けることになります。そして、元タラスのミッチ・ペリーを迎え新生MSGは1988年には無事に来日を果たしています。しかし、アメリカナイズされたサウンドと、バンドの結束を優先させ、今までマイケルがギターを弾きまくるといった構成ではなく、全体的にバランスを取った曲作りに、古くからマイケルを支持してきたファンにとっては物足りなさや期待外れの感が否めず、新生MSGのスタートは厳しい現実を突き付けられるようになります。全米ツアーを終えたMSGから今度はミッチ・ペリーが脱退し、バンド休止の間に再びスティーヴ・マンが復帰します。MSGはミーティングを重ね、マイケルらしさを前面に押し出した、マイケルの伝説の復活をニューアルバムのメイン・テーマに決め曲作りを開始します。プロデューサーにフランク・フィリペッティを迎え、全員参加の色合いの強い曲作りを終えたMSGはついに1989年「SAVE YOURSELF」が完成します。前作よりもギターが強調され、マイケルも自由奔放にギターを弾いています。そこには黄金時代に戻ったかのような美しく、切ないメロディや、心機一転した明るい曲もあります。これこそ真の復活作と言えるものでした。その後マイケルはドイツを離れ、活動の拠点をアメリカはLAに移しました。それに伴ってマネージメントをボン・ジョヴィやスキッド・ロウも所属するドグ・マギー・エンタープライズに移籍しますが、しばらくしてラットなどが所属するレフト・バンクへ再び移籍します。そしてアメリカン・マーケット制覇の為の体制を整え始めました。

■挑 戦  1989~1992

1989年「SAVE YOURSELF」を発表してMSG(マッコリ―・シェンカー・グループ)は活動の拠点をLAに移しました。しかし1回のツアーと数回のギグしか行う事ができず、満足に動きが取れない状態が続いたそうです。1990年マイケルは、「LA Weekly 誌」に1時間200ドル(約21,000円)でギター・レッスンの広告を掲載していたそうです。それは経済的な理由ではなく、療法としてのものでした。2ヶ月間は週のうち5日間はレッスンの予定で埋まっている日もあったそうです。中にはサインや写真が欲しいだけのファンもいたそうです。そういった活動をしつつその間、マイケルはMSGとしての曲作りをロビンと進めながら、一方では、LAガンズのトレーシー・ガンズ(G)、元ラットのボビー・ブロッツァー(Ds)、ヴィクセンのシェア・ぺダーセン(B)、シャーク・アイランドのリチャード・ブラック(Vo)らと一時的なプロジェクト:コントラバンドに参加し1991年5月にアルバム「CONTRABAND」をリリースします。マイケル・シェンカーがこのような外部プロジェクトに参加することは極めて稀なことで、当時マイケルがいかに音楽活動に対して積極的だったかが窺えます。1990年のクリスマス、MTVの「Unplugged」にRATTとセッションする形で出演するのですが、その背景にはロビン・クロスビーが病気で入院していて、バンドは代役としてマイケルに声をかけたとされています。MTVでRATTとマイケル・シェンカーという夢の組み合わせが実現し、マイケルの才能に惚れ込んだボビー・ブロッツァーが周囲の進言によってこのプロジェクトが結成したそうです。ロビン・クロスビーは「入院先でRATTにマイケル・シェンカーが入ってプレイしていたという話を聞いた。ウォーレンとマイケルは仲が良かったから、多分マイケルに代役を要請するだろうなとは思っていたが自分のいないRATTを初めてテレビで見て妙な感じだった。」と彼は苦笑いしていたそうです。また、このプロジェクトの誕生の背景には、もう一つの政治的理由があったそうです。RATTもマイケル・シェンカーもレフト・バンク・マネージメントに所属していました。このマネージメントは大所帯で多くのアーティストが所属しています。実は数年前からこのレフト・バンク・マネージメントが新しいレーベルを設立するのではないかと噂があったそうです。しかしそれが、なかなか実現しなかったので単なる噂に過ぎないと思っていたら1990年の秋頃から再びその噂が広まり、結局レフト・バンク・マネージメントは「インパクト・レコード」の設立を発表します。このCONTRABANDは「インパクト・レコード」からアルバムを発表しますので、ある種の設立記念の広告塔的な意味合いがあったそうです。その当時のロック・シーンを代表する実力派のミュージシャンが一同に会したというだけで、どのように融合するかという興味も湧いてきます。広告塔にはもってこいということだったわけです。リチャードとシェアがCONTRABANDのプロモーションで来日した時に「5人のスケジュールを調整するのは難しく、オリジナル曲作り、リハーサルするのは不可能だ。」と言っており、外部のソング・ライターの曲からこのプロジェクトに適したものを選んでプレイしようとなったそうです。ファンにとってはオリジナルが聴きたかったのでは?という問いにリチャードは「確かに心残りがあるとすればその点だが、何としても6週間ですべてを仕上げなければならなかったから、とにかく時間がなかった。そしてメンバーが忙しすぎてリハーサルするのがやっとだった」と言っています。5人が集合してスタジオに入り、ジャム・セッションの形でプレイしているそうです。そして、リチャードとシェアはこのレコーディングの模様をこう説明しています。トレーシー・ガンズはスタジオに入り、まるでジャム・セッションのようにギターを弾き始め5~6テイクの中からベストなプレイを選んで、さっさとスタジオから消えたといいます。一方、マイケルは細かく自分のプレイをチェックするようにリハーサルし、自分の納得のいくまでスタジオから離れなかったそうです。二人の性格がよく出ているエピソードです。マイケルがそういった活動をしている間にMcSGでは、ロビン以外のメンバーも、それぞれ独自の活動を始めていました。そのために、ニューアルバムの制作準備もできない状態になったそうです。そこでマイケルとロビンは、残りのメンバーを解雇処分にし、レコーディングのみのメンバーとして元ドッケンのジェフ・ビルソン(B)、元キングダム・カムのジェイムス・コタック(Ds)を迎え1991年に入ってニューアルバムの制作を開始しました。プロデュースを担当したのは「コントラバンド」も手掛けたケヴィン・ビーミッシュでした。ロビンとマイケルの二人だけになってしまったMⅽSGでしたが、レコーディングはこれまでになくスムーズに進んだそうです。夏前にはすべての作業を完了させるというスピード作業だったそうです。完成したアルバム「M.S.G」(1991年リリース)は前作以上にマイケルのギターがフューチャーされており、マイケルも約2年半アルコール&ドラッグに手を出さずクリーンな状態で曲作りしたことで、それが影響してか、明るいフィーリングのアルバムが出来上がります。また、ギター・プレイも陰の要素はあまり感じられないもののマイケルらしい美しいメロディがありマッコリ―・シェンカー・グループになってから最高傑作といえる仕上がりになります。ところが1991年秋に発表される予定だったそのアルバムは急遽、発売延期となってしまいます。その理由はコントラバンドのアメリカン・ツアーを行うことが決まり、アルバムのプロモーションが充分にできないという判断からでした。そのツアーは、ラットをヘッドライナーにLAガンズ、バング・タンゴとのカップリングという形で秋からスタートする予定でした。しかし、ヴォーカルのリチャード・ブラックが、他のメンバーの情熱のなさに怒り、ツアーを途中でコントラバンドのLIVEを放棄してしまうのです。元々アルバムセールスが良くない上にLIVEをする必要があるのかと疑問視されていたツアーだったわけですが、とにかく、そのツアーは頓挫します。こうしてマイケルはMⅽSGに専念できる状況になります。実は、このアルバム「M,S,G」(1991年リリース)からシングルカットされる「Nightmare」のボーナス・トラック用にドイツでアコースティック・ヴァージョンのレコーディングが行われ、合計24分となった5曲入りの12インチ・マキシ・シングルがリリースされました。後に日本ではボーナス・トラックを加えて「THE ACOUSTIC M.S.G」(1992年リリース)として発表されますが、これが高い評価を得て1991年12月「M.S.G」プロモーションのため、マイケルとロビンはシャーク・アイランドのスペンサー・サーコムを連れ立って来日しアコースティック・セットによりシークレット・ギグを行い、新たな魅力を披露します。これがきっかけとなって、マイケルはロビンとスペンサーとともにアメリカでアコースティック・セットによるツアーに出ます。その模様は1992年に発表された「THE ACOUSTIC M.S.G」や「神々の饗宴M.S.Gライヴ‼」に収録されています。そして、それを最後にマイケルは7年来の付き合いだったロビンと別れてしまいます。それはMcSGが全米をターゲットにしたプロモーションで2人の方向性にズレが生じてきた事や、「神々の饗宴M.S.Gライヴ‼」でのリミックスをめぐって意見が合わなかったことなどが理由だとされています。これは事実上M.S.Gの消滅を意味していました。

■彷 徨(ほうこう)1993~1994

マイケル・シェンカーは7年越しの付き合いだったロビン・マッコリ―と別れ、M.S.Gの活動に終止符を打つことになります。その後マイケルは1993年に入ってから自主製作でアコースティック・アルバム「THANK YOU」(1993年リリース)を発表します。これまで自分を支えてきてくれたファンのために作ったもので、マイケルがアメリカの自身のオフィシャル・ファンクラブを通して通信販売で売られたアルバムでした。申し込みの先着順に1000人ほどのファンの名前がアルバム・アートワークにクレジットされるというニュースもありました。ジャケットをよく見てみると、細かい字でたくさんの名前が書かれています。よく見ると、そのアートワークには多くの日本人の名前を見つけることができます。この期間のマイケルの活動を見てみると、アンプラグドに対するこだわりが強いことがよく分かります。アンプラグドはマイケルたった一人で可能な演奏形態であり「THANK YOU」(1993年リリース)はソング・ライティングからプロデュースと作品が完成するまでのすべてのプロセスをマイケル1人で行っています。スコーピオンズの兄ルドルフはこの時期、弟マイケルの名刺を何枚か財布の中に入れていて、マイケルの再起に協力できそうな人にその名刺を渡しているのだと話をしていたそうです。ルドルフの話によるとマイケルはビジネスに疲れ果て、一時期は誰も信用できない状態になり、結局、M.S.Gは解散してしまいます。UFO、MSGとマイケルはことごとくマネージャーに裏切られ、ビジネスから遠ざかることを考え始め、誰の介入も受けずファンクラブから「THANK YOU」(1993年リリース)を発表したのだそうです。前年の1992年3月25日カリフォルニアのアナハイムのセレブリティ・シアターでM.S.Gとしてのアンプラグド・ライヴを当時のマネージメントは日本公演を考えていました。マイケル、ロビン、スペンサーの3人のアンプラグドの形態での公演を望んでいましたが、日本側は、フルセットのライヴを主張したことから、両者の思惑はバラバラとなり、事態は意外な方向に流れ出します。マネージメントは最終的に「M.S.G」のレコーディング・メンバーでのフルセットの日本公演を了承し久々の日本公演が発表されましたが、公演直前にマイケルがこのツアーを拒否し、来日公演は突然中止となってしまいます。すでにマイケルはM.S.Gを解散させ、このマネジメントとの契約も終了させる直前で、この日本公演はマイケルの知らないところで企画されたものだったらしいのです。ここをピークにマイケルはビジネス不信に陥ります。この精神的ダメージがルドルフが言っていたビジネスに疲れ果て誰も信用できない状態になり「THANK YOU」(1993年リリース)へと流れていったそうです。そして1994年1月にはスコーピオンズの来日公演に帯同し、アコースティック・セットを披露します。日本では10年ぶりの兄弟共演を実現させました。そもそも、マイケルとルドルフは頻繁に電話で連絡を取り合っていて、ある時、ルドルフがマイケルに「スコーピオンズのヨーロッパ・ツアーで、MSGにオープニング・アクトを務めてほしい」と依頼があったそうです。ところが、その時点でMSGは消滅していたので、マイケルの方から「その代わりにUFOじゃどうだい?」と提案したそうです。それに対してスコーピオンズ側は前向きに検討しましたが、結局準備期間やタイミングの問題で実現が難しいということになりますた。そこでマイケルとしては「THANK YOU」のプロモーションも必要だと考えていたので、今度はマイケル個人として前座を務めるのはどうか聞いてみたそうです。ルドルフは、マイケルが生ギターを演るなら前座よりも途中のアコースティック・パートにゲスト出演する方が良いんじゃないか、という意見になったそうです。せっかくだから、メインのセットの中に参加した方が、ファンもより喜んでくれるのではないか、それと、マイケルがソロでオープニング・アクトを演じるのも、ルドルフは彼にそれは演らせられないと直感的に考えてたと言っていました。メイン・アクトが出てくる前の会場は騒がしく、落ち着かない状態で、そんな雰囲気の中で、マイケルはプレイすべきではない、それは彼に対して失礼だとルドルフは思ったそうです。ちょうどアコースティック・アルバムを作ったところで、それをメイン・セットの中でゲスト・プレイヤーとして披露するのが一番良い方法だと考えたそうです。1994年1月24日 日本武道館スコーピオンズ LIVE in JAPANで当初は簡単な生ギターによるギグ程度だと思っていたセットが、実は本格的なアンプラグド・ショウだったことにファンは大喜びでした。このセット用にドラム・キッドを変え、生ベース、ギターも12弦など使い分け、さらには照明までセッティングすると言った演出がされていました。マイケルへの敬意も含まれていたのではないでしょうか。そして、「THANK YOU」(1993年リリース)に収録されている「POSITIVE FORWARD」をマイケル、ルドルフ、マティアスのトリプル・ギターでプレイするなど滅多に見られないステージになりました。5曲だけの参加でしたが、マイケルの姿を見ることができた嬉しさと、スコーピオンズが見せたマイケルへの愛情を感じたファンも、きっと多かったに違いありません。

■誘 引  1993~1994

マイケル・シェンカーがスコーピオンズのツアーに参加しアコースティックでギグを行っていたある日、スコーピオンズのバックステージにフィル・モグ、ピート・ウェイの姿がありました。それ以前に、ルドルフがマイケルに「スコーピオンズのヨーロッパ・ツアーで、MSGにオープニング・アクトを務めてほしい」と依頼したときにマイケルは、「MSGは解散しているから、その代わりにUFOじゃどうだい?」と提案したことがありました。実はそれには理由があったそうです。マイケルには、フィル、ピートからUFO再結成のアプローチが何度もあったそうです。しかし、すべて断ってきたとマイケルは言っています。一方、ピートはマイケルはクリサリスから再結成の申し出の際、100,000ポンド(約1,400万円)のギャラを要求したために破談になったと言い、マイケル、ピートの言い分は少し異なっておりよくわかりません。しかし1992年頃になり両者の心境に変化が現れます。マイケルは「もしかすると、演奏してもいいかもしれない。演るべきかもしれない。」と言い出し、スコーピオンズのバックステージにフィル、ピートが訪れたことがきっかけで両者が再結成に向けて動き出したと言われています。その背景には両者ともビジネスに困窮しており、それらを好転させる起爆剤が欲しかったからではないかと思われます。ピートの自伝には日本のレーベル「ゼロ・コーポレーション」が多額のギャランティを提示し、合意に至ったという話があり、マイケル自ら接触したという説もありますが、よくわかりません。合意に至った彼らは、1993年の秋ごろ、アンディー・パーカー、ポール・レイモンドを呼び、これらの条件に同意し奇跡ともいえる再結成が実現するのです。そして1993年末、ドイツツアーから活動を始めます。ドイツのファンはマイケルが復帰した事を知らされていたものの信じることができずマイケルではなく、どうせポール・チャップマンがステージに立つのではと、ライヴが始まるまでは半信半疑でいたそうます。翌年の1994年もツアーを中心に活動し、1994年4月にアメリカ、そして6月から日本公演も実現させています。マイケルがUFOとして日本のステージに立つのは初めてのことで、日本のマイケル・ファンはこの日本公演の発表に期待と興奮でヒート・アップしていました。そんな中、初日の12日のオープニングにちょっとしたアクシデントが発生します。「THANK YOU」から生ギターで、2曲オープニング・アクトの後、「Natural Thing」で幕を開けます。その前半に愛用のフライングVにアクシデントが発生します。曲が流れている間、バタバタします。サブ・ギターにサッと切り替えれたら良かったのですが、楽屋でチューニングを変えてしまっていてダメ。ポール・レイモンドのサブ・ギターを借りようとしましたが、ポール・レイモンドはサウスポーでダメ。最終的にギター・テクのVを使うことになった時には「Natural Thing」は終わってしまったそうです。「Natural Thing」はマイケルがステージ上にいないままエンディングになったと言われています。記念すべき再結成UFOのスタートにしては残念なオープニングになってしまいました。しかし、マイケルは笑顔で続けてプレイしたそうです。3曲目以降、ツートーンのVを使わず「4」のステッカーが貼ってあるVを使用していたそうです。そして、UFO再結成は本物である事をファンに証明しました。

■惹 起(じゃっき)1995~1996

UFOが奇跡的に再結成し、ツアーを大成功に収め、ファンが半信半疑だった疑念を払拭し、再結成が本当であるということを証明します。そして、次のステップにアルバムの制作でした。ゼロ・コーポレーションは多額にアドバンスを支払っていましたが、世界配給の権利はなかったため、レコーディングが始まるまでは、バンド自らで製作費を負担することになります。しかし、制作に向けて彼らはカリフォルニアのRumbo Recordersで、セッションを始めたそうです。UFO の黄金期の5人が集まったわけなので、レコーディングに欠かせないプロデューサーに6人目のメンバーとしてロン・ネヴィソンを迎えます。UFO のアルバム「OBSESSION」(1978年リリース)以来、17年ぶりのチームとして動き出します。マイケルはインタビューで17年ぶりに再会してアルバム制作することに際し、「時間のギャップは全く感じなかった。一瞬で空間が埋まった感じ」と話し、レコーディングもスムーズに進み1995年 4月「WALK ON WATER」をリリースします。マイケルは、このレコーディングで、1993年のドイツ・ツアーのリハーサルでロンドンに行った時、スタジオにおいてあった1台のマーシャルが最高の音を出す優れもので、そのマーシャルはレンタルで持ち主にマイケルが何とか口説き落とし売ってもらうといったことがあったそうです。また、当時のマイケルのギター・テクのレオンと再会してギターの話になり、レオンもギターを1本もっているということになり、「結構ボロいけど、バックアップ用に使ってもいいよ」という話になりすぐ持ってきてもらい、弾いてみると、それがマイケル曰く「グレイト」な代物で、しかも例のマーシャルと組み合わせると最高のサウンドになったと言っています。ちなみに、そのフライングVはホワイトフィニッシュでファンの間では「4」のステッカーが貼られたギターとして知られています。レコーディングでは、これ1本しか使わなかったといっています。アルバムをサポートするツアーにはドラムのアンディ・パーカーは自身のビジネスの関係で帯同できないことが決まり、代役にAC/DCでプレイしていたサイモン・ライトが起用されます。1995年のUSツアーも大盛況を収め成功の感触はあったのですが、アルバムの売れ行きがいまひとつ伸び悩み、アメリカの大手レーベルはUFOと契約しようとしせませんでした。また、このツアーでマイケルのみパーソナル・アシスタントという名目のマイケルの彼女と共に移動をしており、1995年10月20日カリフォルニア公演で、移動に手間取り会場に現れないというトラブルが発生しました。マイケルが来なかった理由は諸説あるようなのですが、当然ライヴはキャンセルとなります。そのような態度を快く思わないフィルとの間に案の定、緊張感が高まっていきます。マイケルとフィルがまた揉めだしたと噂が広がり、ピートが翻弄しますが、そもそも、フィルとマイケルではUFO再結成に賭ける思いに大きな開きがあったのではないでしょうか。マイケルにはまだまだ余裕があり、対してフィル、ピートにとっては切羽詰まった状態で、実質この後の1996年にはマイケルはMSGとして活動を再開させているのです。このような流れから、世間では再結成されたUFO(マイケルの加わった)は終わったものだと認識されていました。

■焦 燥  1996~1998

1996年 8月、MSG名義でゼロ・コーポレーションから「WRITTEN IN THE SAND」をリリースします。(ヴォーカル)リーフ・スンデン(ベース)バリー・スパークス(ドラム)シェーン・ガラース(ギター)マイケル・シェンカーのラインナップでプロデューサーに「WALK ON WATER」の制作に関わったロン・ネヴィソンをそのまま起用しています。MSGでは1981年リリースした「MSG」の制作時以来でコージー・パウエルとアルバムのサウンドの事でもめたこともあって、マイケルは、その時は出来に全く満足できなかったが、その後ロンも僕も変わり、再びUFOの作品を作った時は、彼のおかげで自分自身を取り戻せたと言っており、その経緯からの起用だそうです。そして「WRITTEN IN THE SAND」のアルバムのライヴ活動の一環として、マイケル・シェンカーがプロデビューして25周年を記念して「マイケル・シェンカー・ストーリー・ライブ」と命名し企画されたツアーが開始されます。アルバム制作の既存メンバーに(サイド・ギター兼キーボード)セス・バーンスタイン、(ヴォーカル)ディヴィッド・ヴァン・ランディングが加わりアメリカ・ツアーの後、1997年3月からジャパン・ツアーを行っています。マイケルが携わってきたバンド(スコーピオンズ、UFO、MSG、McSG コントラバンドなど)の名曲を年代順に演奏していく特別企画でファンも感激し大盛況でした。アメリカ・ツアーではリーフ・スンデンが不参加だったため、後に日本公演のライヴをCD化されています。また、アメリカ・ツアーでは年代順の構成ではなくアトランダムに演奏しています。マイケルは日本ではスタート時代から始めて今現在で終わる、それを披露したかったといっています。1997年5月マイケル自身のレーベル「MSR」から「THE MICHAEL SCHENKER STORY LIVE」をリリースします。そして、1997年8月驚いたことが起きます。なんとマイケルを加えたUFOがハリウッドでギグを行うのです。まだUFOとしての繋がりがあることが明かされるのです。その後、1997年秋にはUKツアーから欧州ツアーまでも行いUFOとして活動を順調に進めていました。そして、1998年、UFO再来日が急遽決定します。来日メンバーは(ギター)マイケル・シェンカー、(ヴォーカル)フィル・モグ、(サイドギター&キーボード)ポール・レイモンド、(ベース)ピート・ウェイという黄金期のオリジナルメンバー4人と、元AC/DC、DIOのサイモン・ライトがドラムとして加わりUFOとしては4年ぶりの来日になります。日程は4/21大阪IMPホール、4/22名古屋クラブダイヤモンドホール、4/24, 25, 26 東京中野サンプラザ。とりわけ4/26の東京中野サンプラザに関しては追加公演として予定されていました。4/21の大阪公演は大盛況でセットリストをすべて演奏していますが、4/22の名古屋公演ではマイケルの体調不良を理由にアンコールがカットされ、予定されているセットリストを見る限りクライマックスがないまま終わった形になってしまいました。そして4/24の東京中野サンプラザでは開演予定の15分過ぎに「Natural Thing」で幕を開けます。場内は大いに沸き、盛り上がります。金髪のマイケルが黒髪に染めておりファンは戸惑いを隠せないスタートでした。誰もがマイケルがいない!フライングVを持っているのがマイケル?本当にマイケル・シェンカーなのか?といった疑惑の思いも秘めながら、サウンドを噛みしめている状態でした。しかし、ソロパートに入り、マイケルのPlayであることはマイケル・シェンカー・ファンならすぐにわかるマイケル特有のギター・トーンで、オーディエンスは黒髪のフライングVを持っている人は、マイケル・シェンカーであると確信します。また、マイケルもファンが盛り上がっている事が伝わりフライングVのヘッドをオーディエンスに向けるなどしてマイケル自身も盛り上がっているようでした。そして7曲目に入りマイケルが客席に向かって「I can’t play」や「Sorry!」という言葉を発し、マイケルはフライングVをステージに叩きつけその場を去ってしまいます。後にマイケルはこの時のことを「病気だった」といっています。実はこの日本公演の前のアメリカにおける4/15の公演中にマイケルが突然演奏中にステージから姿を消し、その日の公演はキャンセルになってしまうという事件が発生していました。しかし、翌日以降は予定通り公演を続けていることから日本公演も予定通りに事が運べると主催者側は思っていたのでしょうが、4/24の中野サンプラザの事件はアメリカでの公演キャンセル、名古屋でのアンコール・カットと、すでに予兆があったと考えられます。よって、その後に予定されていた4/25, 26 東京中野サンプラザの公演は中止となります。当時、ポール・レイモンドはこの事態に激怒し、マイケルと取っ組み合ったとも言われており、大喧嘩したそうです。もうこれ以上続けられないとしてUFOを去っています。また、マイケルはその時の影響で「指を骨折した」とも言っており、本人としては最高水準の演奏をしたかったができなかったとも・・・それが4/24当日の事か、それとも後に中止になった4/25.26の事かは不明だそうです。そして、その後1998年5月にはマイケル自身が指を怪我していないことを認めていることから、もはや何が理由で4/24の東京中野サンプラザ公演を途中降板したかは誰にもわからない状態になりました。またステージに叩きつけたフライングVは例の「4」のステッカーが貼られているマイケルのギター・テクのレオン・ローソンのものでマイケルが「グレイト!」といっていたギターでした。粉々にぶち壊れてしまいましたが、マイケルは修理、修繕を終えレオンは再びマイケルと共に働いているとのことです。その情報からするとレオン氏は懐の深い器の大きい人物だと推察されます。この事件を機にUFOの活動休止は余儀なくされます。残されたフィルとピートはドラムにエインズレー・ダンバーを迎え、再度UFOとして活動しようとしますが、1993年の再結成時にマイケルシェンカーを含むラインナップでなければ「UFO」の名義は使えないという契約にサインをしていたため、2人はUFO名義で活動が行えない状態に陥りました。結局、「Mogg/Wey」の名義でアルバム制作や活動を細々く継続していくことになります。マイケルとフィルはよほど相性が悪いのだと思われます。後にマイケルは、UFOをマイケルが脱退したあと、なんとかしてマイケルが抜けていないフリをするのだと…以前フィルのUFOが活動を停止した時、フィルはマイケルの妹バーバラに電話をしてバンドに入らないかと誘っていたそうです。フィルとしては「シェンカー」という名前なら誰でもよく、そうしてUFOを守ろうとしていると言っています。マイケルは、再結成したもののそういったことに嫌気がさしたのではないでしょうか。また、契約内容からするとマイケルに主導権がある内容にも取れることから、気持ちに余裕を持った関りができていたのかもしれません。と言うのもマイケルは着々と次のステップとして前進しているのです。マイケルは1998年5月14日よりG3ツアーに参加しているのです。G3ツアーは、ギタリストのジョー・サトリアーニが主催し、ジョーと2人のギタリストを交えて3人で行うツアーコンサートのことです。この企画は、1996年から続いていて、それまでに、スティーヴ・ヴァイ、エリック・ジョンソン、1997年には、ロバート・フリップ、ケニー・ウェイン・シェパードが参加しています。それぞれの演奏が終わった後に、3人がステージに集まり、時にはスペシャルゲストも加わりジャムを行うといったツアーで、1998年では、マイケルシェンカー、ウリ・ジョン・ロートが予定されていました。マイケルはMSGとして出演しメンバーは、なんとヴォーカルにゲイリー・バーデンが14年ぶりに登場することになります。他のメンバーは(ヴォーカル)ディヴィッド・ヴァン・ランディング、(サイド・ギター兼キーボード)セス・バーンスタイン、(ベース)ジェフ・コールマン、(ドラム)シェーン・ガラース、(ギター)マイケル・シェンカーのラインナップです。MSGの持ち時間が約1時間で、そのうち25分程度がゲイリー・バーデンが担当することになりセットリストの中には「Lost Horizons」なども含まれていました。ちなみにマイケルはこの時期から少しずつ太りだします。当初、ゲイリーは最高のシンガーではない(歌が下手)と言われていましたが、名曲「Lost Horizons」を歌わせれば彼の右に出るものはいない。またMSGに合っているとし関係者、オーディエンスも楽しみにしていました。ツアーはヨーロッパを周り、その都度ゲイリーのパフォーマンスは最高で、なぜ全曲ゲイリーに歌わせないのだろうという声も聞かれたそうです。またメンバーのシェーン、セス、ジェフ、ディヴィッドはとても社交的な連中だそうで、彼らはゲイリーに信じられないくらいリスペクトしており、ゲイリーと一緒にプレイできるなんて信じられないといっていたそうです。

■屈 折  1999~2000

そして、マイケルは1999年1月自身のレーベルMSRから「Thank You Orchestra」をリリースします。1993年に発表した「Thank You」の原盤にストリングス等でアレンジを施した内容のもので新宿、お茶の水等でサイン会を行っています。黒色に染められていた髪は金髪に戻り、終始笑顔だったそうです。その後マイケルはMSG名義で1月に新たなアルバムの制作に入ります。マイケルの構想でワールドワイドでアルバムを発表したかったこともあり、プロデューサーはロン・ネヴィソン以外の人物を探していたところ、以前から知り合いのマイク・ヴァーニーをプロデューサーに起用しています。また、ベースのバリー・スパークスはBilly Myersのツアーに出ていたため、ドラムのシェーン・ガラースが以前一緒にPlayした元Artensionのメンバーのジョン・オンダーを加え、さらにマイケルがディヴィッド・ヴァン・ランディングを新たなシンガーに変更することを決断し、(ヴォーカル)ケリー・キーリング、(ベース)ジョン・オンダー、(サイド・ギター兼キーボード)セス・バーンスタイン、(ドラム)シェーン・ガラース、(ギター)マイケル・シェンカーのラインナップでカリフォルニアに入りアルバム制作に入ります。レコーディング前にセッションを行い、基本的にマイケルが書き上げてきたパーツ的な音源を発展させ全14曲が完成し、そのうち12曲が選曲され、1999年2月「The Unforgiven」がリリースされます。日本版では日本クラウンより3/18に発売されています。タイトルの「The Unforgiven」を和訳すると「許されざる者」になります。 東京中野サンプラザ事件に関係しているのでしょうか。後にマイケルはこのタイトルに関しては、やはり1998年4/24 UFO来日公演 東京中野サンプラザにおける途中でコンサートを中止したことに起因していると言っています。マイケルは「あの時、僕は病気だった」と言っており「別の機会にコンサートをやり直そう」と周囲に言っていたそうです。しかし、周囲の連中は「金」の事ばかりに捕らわれ、いつまでたってもラチが明かない、「だれも僕の病気のことなんか気にも留めてくれない」「みんな自分の利益のことしか考えていなかったんだ。」と、周囲はマイケルを非難するばかりで、マイケルは彼らの言い分こそ理解できなかったと言っていました。まさに「許されざる者」になってしまったということだそうです。今回の「The Unforgiven」のタイトルもそういう思いの発信だということで付けたものだそうです。そして、このアルバムのツアーを4月から行います。その模様を収録されたライヴCDをシュラプネルから1999年9月「THE UNFORGIVEN WORLD TOUR」というライヴ・アルバムをリリースします。1999年6月5日、6日アメリカのPalo Altoにて行われたLIVEを完全収録されたものです。2000年には5月23日名古屋、24日大阪、25日横浜、27日東京と来日公演を行っています。その間にリンダ夫人が子供を出産しMiky(ミキー)と名付けられました。ちなみにマイケルには子供がこれで5人いることになります。(Miky、Essenz、Chinua、Taro、Tyson)その後、マイケルが所属するSPVが協賛する「The Essence Of Rock Tour 99」と銘打ってグレン・ヒューズ・バンドと9月16日のドイツ・ケルンから10月7日ハンブルクまでのヨーロッパ・ツアー17公演が予定されていましたが、キャンセルになりマイケルの音楽活動に一時的に空白が出来てしまいます。このキャンセルに関しては経済的な理由によるものでマイケル、グレンのいずれかに起因する問題ではありませんでした。そこで、マネージャーのピーター・クノーンがアイデアを出します。エレクトリック・インストゥルメンタル・アルバムの制作でした。マイケルはストイックな性格の持ち主で、毎日のように練習は欠かさず、 ”曲” はその中から断片的に生まれたリフやフレーズを録音しておき、いつか使う日が来るまで大切に金庫に保管しているという話もあるほどです。そして数あるアイディアの中から、最もそのプロジェクトに合ったものが具現化されたと言っています。サウンド的に、トリオ編成で(ベース)ジョン・オンダー、(ドラム)エインズレー・ダンバー、(ギター)マイケル・シェンカーです。プロデューサーのマイク・ヴァーニーはキーボードにトニー・マカパインを迎えたらどうかという話があったそうですが、外部の影響を出来るだけ受けたくないというマイケルの意向から取り合えずトリオ編成でスタートし、色付けとして後からマイケル自身が弾いています。そして、マイケル・シェンカー名義でシュラプネルから2000年3月「Adventures of the Imagination」をリリースします。そのCDにはリンダ夫人、Miky(ミキー)の写真が入っており、マイケルも幸せそうな様子が伺えます。そして、なんと、それと同時に水面下でマイケルの方からフィル・モグとピート・ウェイと接触し、UFOの再結成に向け着手していたのです。1998年4月24日の東京中野サンプラザ事件とその後のポール・レイモンドとの大喧嘩、さらにフィル・モグとの確執などを考えると再結成は、到底考えられませんでしたが、当人同士は納得しているのでしょう。マイケルは、マネージャーが変わり、バックアップしてくれるレーベルも付いて基盤がしっかり出来上がった。そうでなければUFOメンバーと一緒にいても時間の無駄で、事をうまく運んでくれる組織が必要だったと言っています。フィルもピートも「Mogg/Wey」として活動してアルバムも発表していますが、UFOの看板が有るのと無いのとでは全く異なることは判っているはずです。自身のレーベルから発表していることからビジネスとしても旨味がありません。また、この再結成を提案した一人がプロデューサーのマイク・バーニーだったそうです。1999年12月中旬からUFOの新作レコーディングの準備、リハーサルを始め、2000年2月10日からレコーディングを予定していました。そして、そのリハーサル開始前にレコーディング・スタジオに向かう途中に、アクシデントが発生します。マイケルはスタジオに向かう途中、リンダ夫人とミキー(生後6ヶ月)をオークランド空港に迎えに行くことになっており、遅れてしまったので、空港へ携帯で連絡を取ろうとした時、運転を誤って事故を起こしてしまうのです。目撃者の証言によれば車が3回転したそうで、バンは最終的に元の向き戻ったそうですが、マイケルは「バンは潰れたコーラの缶のようになっていた」と言っています。機材関係が散乱しマイケルは首を固定され、救急車で病院へ搬送されたそうです。検査を受けた結果、打撲程度で済み「無事だったのが、信じられないくらい」といっています。2月9日に自宅に戻り機材を確認したら壊れたものはほとんどなく、ギターが1本、3つに砕けていた以外は大丈夫だったそうです。マイケルは、「みんなも、携帯をかけながらの運転はしちゃダメだよ」と言っています。2月10日には予定通りレコーディングを開始しています。マイケルはその時の感触で、夏にツアーに出る予定であることを言っており、その前にMSGとしてのツアーもあるかもしれないと言っていました。そして2月下旬にMSG来日公演が決まります。5/23 名古屋ダイヤモンドクラブ、5/24 梅田hHeat Beat、5/25 横浜ベイホール、5/27 赤坂ブリッツ、(ヴォーカル)キース・スラック、(ベース)バリー・スパークス、(ドラム)シェーン・ガラース(キーボード)ウェイン・フィンドレイ(ギタ)マイケル・シェンカーのラインナップです。1998年の中野サンプラザ途中降板事件で、マイケル・シェンカーの日本公演はもう実現できないのではないかと言われていましたが、どうやら実現できたようです。5月の日本公演ではアンコールでマイケルがウィッグを被って登場して、ファンを驚かせました。UFO時代を思い出させる容姿で、マイケルの発案だそうです。ファンも大喜びでした。そして2000年7月には、UFOとしてシュラプネルから「COVENANT」をリリースします。(ヴォーカル)フィル・モグ、(ベース)ピート・ウェイ、(ドラム)エインズレー・ダンバー、(ギター)マイケル・シェンカーのラインナップです。そして11月2日からドイツ・ハノーバーの公演からツアーを開始します。続けて2000年8月にエレクトリック・インストゥルメンタル・アルバム「Michael Schenker 2000-Dreams and Expressions」がマイケル自身のレーベル、MSRからリリースされます。ラインナップは(ベース)バリー・スパークス、(ドラム)シェーン・ガラース、(ギター)マイケル・シェンカーのトリオ編成です。レコーディング場所として、「Michael Schenker Records Recording Studio」とあり、マイケル・シェンカーの個人のスタジオが完成しました。マイケルが自身がレーベルを主宰し自分のスタジオが完成したことで音楽活動が自由になり、マイケルも「もう僕には閉ざされた扉はない。世界が大きく広がった感じ」と言いています。マイケル・シェンカー個人として、UFO、MSGとして精力的に活動を繰り広げます。そして、「Michael Schenker 2000-Dreams and Expressions」をリリースした2000年8月から通常の長さのインストゥルメンタルのアルバム「THE ODD TRIO」のレコーディングに入ります。マイケル曰くこのアルバムにはスペシャル・サプライズが隠されているとのことで、すべてのインスト・パートをマイケルがプレイしているのです。ジャケットにはMchael SchenkerーGitars Harry Cobham―Bass Kathy Brown―Drumsと記載されCDカバーには、ケイシー・ブラウンになりきり女装しているマイケルが映っています。このCDは通常ルートでの発売ではなくツアー会場での販売になりました。ちょうどUFOの「COVENANT」2000年11月のヨーロッパ・ツアーの会場で販売されていました。そして、英国公演が11月22日から始まり、23日ニューキャッスル、そして、24日マンチェスターの公演で事件が起こります。問題のマンチェスター公演の前日のニューキャッスルのライブ終了後の舞台裏で何かが起こります。マイケルが誰かに目を殴られたと言いていたそうで、翌日のマンチェスター公演では、マイケルはクワイヤボーイズのスパイクと殴り合いの喧嘩になり目の周りにあざを作ったとされ、「スパイクがやった」と額にマジックで書いて目のあざに矢印を書いていたそうです。それが誰か、本当なのかは不明ですが、要するにマンチェスターのステージに上がる前のマイケルの精神状態は最悪であったということです。24日のマンチェスター公演ではマイケルは泥酔い状態で意識が酩酊しておりギターを弾ける状態ではありませんでした。そして、ステージ上のフィルに挑発的、攻撃的悪態を露呈します。後にマイケルはUKツアーの終盤になりフィルの声が出なくなり、プロモーターと共に医療にかかったところ回復するのに6日程度必要と診断されマイケルはその事に憤慨したとも言われています。その旨をオーディエンスにマイケルが説明し、ステージの途中でギターをフィルに渡すような場面もあったそうです。マイケルは真っ直ぐ立ってられない状態で、ブーイングの嵐でアンコールもなく公演は終了します。もしかすると、そのスパイクとの喧嘩にフィルも関係していたのではないかという憶測も広がっていました。そして、その後クワイアボーイズのスパイクがインタビューでマンチェスター事件について語っています。マンチェスター公演の日、スパイクはフィルとバックステージで飲んだり、会話をしていたりしていたそうです。マイケルは自分の楽屋を与えられていたのにも関わらず、突然叫びながらスパイクとフィルの部屋に入ってきて、発狂したそうです。そして、すぐにその部屋を出ていき、スパイクとフィルは顔を見合わせ「今のは一体何だったんだ?」と言い合ったそうです。しばらくしてマイケルは再び戻ってきて叫び声をあげていたそうです。スパイクは「マイケル、一体どうしたんだ、落ち着けよ!」と言ったそうです。するとマイケルはスパイクの方を向いて「貴様一体自分が何様だと思っているんだぁ!」とスパイクに殴り掛かったそうです。スパイクはマイケルのパンチをかわし、マイケルにパンチを食らわせたそうです。マイケルは発狂し暴れ出しましたが周りにいた体格の良い男に取り押さえられたそうです。スパイクは「あんな異様な光景は見たことがない」と言っていたそうです。その後のツアーはキャンセルされます。公式な公演中止の理由はフィル・モグが喉頭炎でツアーが継続できないというものでした。そして、そのままUFOは解散してしまいます。2001年1月マイケルはマンチェスターでの振る舞いについて謝罪しています。そしてUFOの活動は少しの間、休止することと、既にMSGの新作に取り掛かっているとインタビューで語っていました。

■滅 裂  2001~2002

2001年2月からマイケルは新たなアルバム「Be Aware Of Scorpions」の制作に入ります。メンバーも一新しています。昨年のUFOツアーからの繋がりで(ドラム&ヴォーカル)ジェフ・マーティンをそのまま起用し、ヴォーカルは以前のプロデューサーのマイク・ヴァーニーの紹介でクリス・ローガンを起用します。マイク・ヴァーニーがクリスのテープをマイケルに送り、それを聞いてマイケルは気に入ったのでしょう。その時点では、クリスはほぼ無名の新人だったのですが、マイケルは「とても優れたシンガーだと思った。なにより若いというのがいい」と言っています。クリスはアルバム制作は初めてでマイケルが「こう歌ってほしい」などの指導を行うこともあったそうですが、クリスは意向を充分に応えてくれたとマイケルは言っています。そして(ドラム&ヴォーカル)のジェフ・マーティンの紹介で(ベース)リフェレント・ジョーンズが起用されます。(ギター)マイケル・シェンカー(ヴォーカル)クリス・ローガン(ベース)リフェレント・ジョーンズ(ドラム&ヴォーカル)ジェフ・マーティンのメンバーでマイケル自身のスタジオでレコーディングが開始されます。5月~6月頃に作業は完了します。続いてマイケルは6月に入り「Thank You 2」「Thank You 3」の制作に入ります。マイケル曰く「Thank You 2」を制作していて収録しきれない素材がまだたくさんあったそうで、続けて「Thank You 3」をレコーディングしたそうです。その背景にはツアー中にCDを販売したいという思惑があったと言っています。そして、2001年6月23日イギリスのキャッスル・ドニントンで「Rock Blues Custom Bike Festival」のトリとして出演するウリ・ジョン・ロートのスぺシャル・ゲストとしてマイケル・シャンカーが出演することが決まります。ウリからギグをヘルプしてほしいと依頼があったそうです。元々スコーピオンズとUFOが出演する予定だったそうですが、スコーピオンズが出られなくなり、当初マイケルとフィルで参加する予定だったそうです。しかし、ピートが「どうして、俺は呼ばれてないんだ‼」と言い出し、ピートも参加することが決まります。ドニントンの公演ではマイケルはマンチェスター公演以来のフィル、ピートとの共演でした。ウリとのツイン・ギターセッションでは互いのPlayをリスペクトし合っているかのようで、オーディエンスはその演奏に感激していました。マイケルもこのセッションにエキサイトしたと言っていました。そして2001年 8月MSGの来日公演が発表されます。これは2001年 10月にリリースされる「Be Aware Of Scorpions」のツアーでした。しかし、急遽キャンセルになってしまいます。ジェフ・マーティンが脱退してしまい、マイケルはパニック状態になり。マネジャーのピーター・クノーンに「ドラマーが脱退したから日本公演をキャンセルしないと」と連絡するも、数日後にマイク・ヴァーニーに相談すると「いいドラマー知ってるよ。MSGにピタリだと思う」と言われ、実際その7日後には新しいドラマーが決まるというハプニングが起こります。慌ててマイケルはピーターに連絡したら、既にその時点ですべてキャンセルした後だったという後日談があります。脱退したジェフ・マーティンは「マイケルは天才であり、彼と一緒に仕事をするのは楽しかったが、彼にはアルコールの問題があり、必要もないのに他人を怒鳴りつけたりするために私はバンドを去った。」と言っています。そういったドタバタ劇と同時にマイケルはもう一つのプロジェクトを始動していました。それは、ピート・ウェイとマイケル・シェンカーで結成したバンド「ザ・プロット」です。2001年にピートは妻を亡くし、ピートは非常に落ち込んでいて、周囲からも見ていて助けが必要な状態だったそうです。マイケルもピートの助けになるよう音楽で接していきました。ある日ピートは自分が作った曲をマイケルに聴かせたそうです。アルバムが途中まで出来上がった状態で、それが素晴らしい出来だったこともありマイケルがピートに「俺も関わらせてほしい」と…そしてこのアルバムのためのバンドを結成することを提案します。「ザ・プロット」という名前はマイケルが考えたものだそうです。そして、次回のマイケルのワールド・ツアーで「ザ・プロット」を紹介することを計画します。そして2001年10月「Be Aware Of Scorpions」がリリースされます。そして2001年11月からシカゴから米国ツアーを開始します。そのMSGシカゴ公演の途中ピートが登場し「ザ・プロット」の演奏が行われました。アンコールでは「DOCTOR DOCTOR」をダブル・ベースで披露したそうです。そしてこのツアーの2001年12月6日マイケルは1曲目の「Into the Arena」の途中でステージを降りたために、その日の公演は中止になります。イントロからタイミングを外し途中でギターテクにギターを渡し退場してしまうのです。どうやらマイケルはインフルエンザに罹患していて40度の高熱があったそうです。その後の米国ツアーすべてが中止になります。また「Thank You 3」(2001年12月リリース)をツアーで販売する予定でしたが、中止になったことで店頭予約、通信販売で販売します。本来ならMSRからサイトを通して販売する予定でしたがMSRのサイトを閉じてしまいます。電話、ファックスも一時不通になり、ファンばかりか関係者も戸惑う状況になります。2002年2月には電話は通じるようになり、リンダ夫人が対応し「Thank You 3」の注文受付等をしていたそうです。マイケルはすべてのビジネスをクローズしたんだと言っており、自身のレコーディング・スタジオでは毎月30,000ドル(約320万円)もの請求があり経営を維持するのが大変で、その他のビジネスを閉鎖してしまいます。そんな中、2002年3月「Thank You 2」をリリースします。すると、驚いた噂が流れます。なんと、マイケルがUFOとレコーディングに入ったというのです・・・

■波 乱  2002~2003

2000年11月24日のマンチェスターの1件でフィルとマイケルは修復不可能に思われていましたが、密かにフィルはマイケルやピートと接触していて、以前からデモを受け取っておりフィルはその内容にとても満足していた様子で「Sharks」というタイトルのアルバム制作に入ったというのです。フィルとマイケルの関係は凡人には理解できない関係であることは間違いないようです。あれだけ険悪な、そりの合わない二人が何度も付き合って、別れてを繰り返すのは何か引き合うものがないと考えられません。とにかく、夏ごろには発表が見込まれているということで…SPVレーベルからマイク・ヴァーニーのプロデュースにより、2002年3月から制作に入り、5月にはレコーディングは終わっていました。レコーディング・メンバーは(ギター)マイケル・シェンカー、(ヴォーカル)フィル・モグ、(ベース)ピート・ウェイ、(ドラム)エインズレー・ダンバーです。マンチェスター事件があったのにも関わらず、バンドとしてイギリスでの公演は前向きに考えていたそうです。2002年5月頃、ベラ・パイパー(元妻?元彼女?でマネージャー的なことをしている)によればMSR(マイケル自身のレーベル)は新会社へ移行している段階で、マイケル自身も言及していたようにスタジオの維持費等で経営が厳しい状態だったそうです。2002年7月頃には、語り継がれている、金欠により愛用してきた自慢のフライングVまでも売りに出した…というのもこの時期の事だそうです。複数のマイケルのギターが売りに出されていました。フライングV No.1をe-Bayオークションに出展されており落札者には様々な特典があったそうです。その他にフライングV No.3、 ベースなど全5種類の出展だったそうです。マイケルがギターを売り出していたことについては、兄のルドルフも知らなかったそうで、とても驚いていたそうです。後に、フライングV No.1は18,000ドル(約196万円)で売却されたとか…  そして余談ではありますが、この頃にマイケルはリンダと離別しています。そして、LIVE情報が飛び込んできます。2002年11月から、マイケルが「LEGENDS OF ROCK」にジャック・ブルース、グレン・ヒューズらと参加することが2002年8月に決まります。「LEGENDS OF ROCK」とは、元スコーピオンズのギタリスト、ウリ・ジョン・ロートが主催するクラシック・ロック・ライブの名称です。1年前の2001年6月23日イギリスのキャッスル・ドニントンで開催された「Rock Blues Custom Bike Festival」でトリを務めたウリの「LEGENDS OF ROCK」が大成功を収めたことによりツアーが決定したものだそうです。マイケルの独特のトーンとギターPlayによりスコーピオンズ、UFO、MSGと真の伝説ギタリストとして君臨して多大な影響力を持ち、ウリとの共演でさらなる名演がみられるとファンはその日を心待ちにすることになります。そんな高揚した期待の空気の中、2002年9月UFOのアルバム「Sharks」がリリースされます。その同月、新たに黒のフライングV No.4をオークションすることがベラ・パイパーからメッセージがリリースされます。そのメッセージによると、そのフライングV No.4は1995年に使用していたマイケルのギターテクのレオン・ローソンの白のフライングV No.4ではないそうです。UFOの「Sharks」の作曲とレコーディングに使用したギターだそうです。そして、そのギターを売却する理由として、数社のレコード会社の支払いが遅れていることで経済的に立ち往生した状態におかれているからであると、正直にリリースされていたうえ「緊急の売却です。」と切羽詰まった状態であることが伺える内容だったそうです。さらに2002年10月マイケルが2002年11月からの「LEGENDS OF ROCK」ツアーの離脱を表明するのです。残念ながら、マイケル・シェンカーは肩の脱臼により「 LEGENDS OF ROCK」 に参加することができなくなるのです。そして2003年になり1月にアメリカのアリゾナ州フェニックスの地元の無料週刊誌「New Time」にマイケルが1時間200ドル(約21,000円)でギター・レッスンを行うことの広告が掲載され、ベラ・パイパーの連絡先が載っていたそうです。またアナハイムで開催された楽器見本市NAMMショーにマイケルが出没するといった情報も出ていたそうです。そのイベントには、ザック・ワイルドジョージ・リンチスティーブ・ヴァイなどもいたそうです。そしてベラ・パイパーからマイケルがUFOを離脱したというニュースが飛び込んできます。フィルとマイケルが有しているUFO名義を巡るバンド名称の権利をマイケルが手放したとのことです。今後UFOがツアーをすることになってもマイケルが参加することはなくなるということです。マイケルは「相変わらず大酒飲んで、騒いでるんだ。僕はそういうことはコリゴリなんだよ。」と言っていました。UFO名義の権利についても「彼らに返した。フィルは今後もUFOとして活動していきたいようだったし、これ以上UFOとは関わりたくなかったから・・・」と言っています。そして、2003年3月、マイケルが愛用していたフライングV No.2 ブロック・ポジションがe-Bayに売りに出されます。25,600ドル(約280万円)で落札されたそうです。そして、2003年4月、やっとピート・ウェイとマイケル・シェンカーの「The Plot」が正式にリリースされます。その頃のUFOはマイケル離脱後「Sharks」がセールス的に市場では機能しなかったことから、フィル・モグは自身のソロ・プロジェクト「SIGN OF 4 」を始動させてアルバムを発表しています。一方、ピート・ウェイは元UFOの旧友である、ポール・チャップマンに声をかけ「WAYSTED」を再結成し、メンバーは散り散りバラバラにプロジェクトに走っていました。その頃マイケルは新たなアルバム「ARACHNOPHOBIAC」の制作に入ります。MSGとしてMascot Recordsと契約を締結し、共同プロデューサーにマイク・ヴァーニーを起用します。(ギター)マイケル・シェンカー、(ヴォーカル)クリス・ローガン、(ベース)スチュワート・ハム、(ドラム)ジェレミー・コルソンのラインナップです。ドラムのジェレミー・コルソンは「Be Aware Of Scorpions」の制作時のドラマー、ジェフ・マーティンが脱退しマイケルがパニックになり、マイク・ヴァーニーに相談して紹介してもらったドラマーです。そして、なんとジェフ・ワトソン(ギター)がゲスト参加し4曲のリード・ギターとしてソロを披露しています。このようにマイケル・シェンカーのアルバムでリードギターを担当するという事は珍しいことであって極めて稀なケースです。ジェフ・ワトソンはマイク・ヴァーニーとスタジオで偶然、顔を合わせます。「マイケルが無断で数日間、行方不明になってしまったんだ。アルバムを仕上げなければならないんだ。」とジェフ・ワトソンに言い寄ります。「4曲弾いてほしいんだ。イヤか?36時間の余裕があるんだけど。」とマイク・ヴァーニーは収録を頼み込んだそうです。そうした経緯でジェフ・ワトソンが4曲の収録をしたのだそうです。またマイケルもジェフ・ワトソンが参加することになった経緯を話しています。今回のレコーディングの合間に1ヶ月間ほどプライヴェートでクレイジーな問題がいろいろ発生し、マイケルはその後のレコーディングができない状態になったと言っています。マイケルはそれが原因で一文無しになってしまい、生活のためにギターを売って生活費に充てていると言っていました。その「プライヴェートでクレイジーな問題」というのがベラ・パイパーの事でした。

■洗 礼  2003~2004

ベラ・パイパーはマイケルとは内縁関係であり婚姻関係になかったと言われています。1996年頃「WRITTEN IN THE SAND」の頃にマネージャー的なことをしていて、その後、いつの間にか再びマイケルの周辺に出没し、何かにつけて窓口的な行動や言動を行うようになり、問題が徐々に露呈し始めます。マイケルとの間にEssenz、Chinuaを出産しています。その出会いは1990年までさかのぼるそうです。1990年にマイケルは「LA Weekly 誌」に1時間200ドル(約21,000円)でギター・レッスンの広告を出していました。その理由は経済的に困窮していたわけではなく、療法としてのものだったそうです。2ヶ月間、週の内5日間はレッスンの予定で埋まっていた時期もあり大盛況だったそうです。申し込んだ人の中にはサインや、写真が欲しいだけのファンもいたそうですが、その中に、ベラ・パイパーがいたのだそうです。ベラはギター・レッスンにはあまり興味がなく1時間話をしただけで、200ドル(約21,000円)を置いて帰ったそうです。しかし、次からベラは招きもしないのに食料品の入った紙袋をもって現れたりし始めまたそうです。マイケルは1977年頃、いきなり「Lights Out」が大成功し名声が高まり、神と崇められ、ステージに上がることに不安を感じるようになり、そのような不安定な心と精神的放浪の拠り所としてスピリチュアルな生活を求めていたそうです。そしてベラが現れた頃はマイケルが「神」に心を開き始めた時期で、ベラは神が引き合わせた無条件の友人であると認識したそうです。しかし、マイケルは、近年ベラの行動、言動が排他的なものであると疑い始めます。ベラはしばしばマイケルの妻であると主張し、リンダ・シェンカーはマイケルの情婦であると言い出します。また、ベラはマイケルとリンダが結婚生活について和解しようしていた時にリンダがマイケルに送った書簡を隠す行為を行います。またリンダに対する誹謗中傷など、問題が拡大していきます。マイケルは、「ベラの目的は僕の財産で静かに、そして密かに僕をペテンにかけた。それに気づくのに長い年月がかかってしまった。」と言っています。ドイツ人であるマイケルは法律に対する知識が不十分であったため、ベラはマイケルを利用し、マイケルが90年代に成し得た財のほぼすべてを搾りとってしまいます。そのためマイケルは所得税についても深刻な問題を抱える事になります。2003年10月裁判所はベラ・パイパーに対して1992年以降のファン・クラブのデータ・ベースを含むマイケルの所有物の返還を命じました。また裁判所は、マイケルに対して、ベラ・パイパーに対し差し止め命令を認めました。近年ベラが露出しだし、2003年1月、アメリカのアリゾナ州フェニックスの地元の無料週刊誌「New Time」にマイケルが1時間200ドル(約21,000円)でギター・レッスンを行うことの広告で連絡先がベラ・パイパーであったことや、2002年秋ごろマイケルとリンダの離別もベラが原因ではないかなど邪推すら浮かんできます。このような出来事がマイケルの表現する「クレイジーな問題」で、マイケルにとって2002年に世界はすべて崩れ去り半年間、あまりにショックでどうしたらいいか分からず、うつ状態だったそうです。そして、マイケルはこのままではいけない、どうにかしないといけないと考えレコーディングの途中1ヶ月間、自らリハビリセンターへ行き、入院していたそうです。「あそこは本当に素晴らしかった」と言っており、あの1ヶ月間は本当に励みになった、入院して良かったと言っていたそうです。そして2003年6月「ARACHNOPHOBIAC」をリリースします。その後マイケルは新たなプロジェクトを始動させます。マイケルの恋人、エイミー・シュガー(ヴォーカル&ギター&キーボード)とのプロジェクトです。「 Schugar/Schenker 」で(Vo.G)Amy・Schugar、(G)Michael schenker、(Dr)Matt Indes、(B)Mark Lehman のラインナップです。早速レコーディングに入ります。マイケルの構想としては「ARACHNOPHOBIAC」の米国ツアーが11月から始まりエイミー・シュガーがセットの中間部に登場すというものでだそうです。ツアー・ラインナップはMICHAEL  SCHENKER(guitar)、CHRIS  LOGAN(vocal)、REV  JONES (bass)、 WAYNE  FINDLAY (keyboards/guitar)、PETE  HOLMES (drums)です。実際11月のツアーでエイミーは「Arachinophobiac」や「Rock Bottom」のソロを披露し、マイケルはエイミーが「Arachinophobiac」のソロを弾いているのを見ながら微笑んでいたそうです。とても良い光景だったそうです。しかし12月に入り突然、エイミーはステージに現れなくなります。結果、その後のツアーにはエイミーは現れませんでした。2003年12月17日ミルウォーキーのローカル大学ラジオ局のインタビューでマイケルは応えています。「エイミーはもうツアーには加わっていない。エイミーは自分にはお荷物になってしまったからtoo much(もういい…?もう結構…?)、家に帰したんだ」と言っていたそうです。また、エイミーの質問になると途端にトーンが下がった感じがしたそうです。これについてエイミーも言及しています。エイミーは今回のツアーが始まる時点で既にマイケルの恋人という訳ではありませんでした。もう、その時点で破局を迎えていたという事でしょう。しかし、とても親しい間柄であったことは間違いなかったようです。エイミーはツアー中もリハーサルと本番以外ではマイケルと一緒にいることはありませんでした。ある日、突然マイケルはエイミーに向かって、わめき散らし、罵ったのです。エイミーはツアー中、マイケルとは、ほとんど一緒にいなかったのに何で「too much」などというのか全く理解できない様子で、エイミー自身いまだにマイケルが何を考えてツアーから追い出したのか分からないと言っていたそうです。マイケルに感謝する気持ちはあるものの、マイケルとは深く関わる気など全くないとはっきり言い切っていたそうです。そしてマイケルは、2003年10月「Thank You 4」リリースします。そしてホーム・ページが開設されます。その時のプレス・リリースで、「現在このCDは私(マイケル・シェンカー)からのみ入手可能です。今回は確実に自分で運営を行い、かつ物事に対して常に注意を怠らないようにしています。他人がこのCDを売っていたとしても、それには手を出さないことによって私(マイケル・シェンカー)を支援してもらえればありがたいです。私(マイケル・シェンカー)が92年以降維持していたファン・クラブのデータ・ベースは以前私(マイケル・シェンカー)と共に働いていた人達に取られてしまいました。彼らがこのCDをコピーしてオファーしてくることは十分考えられます。基本的にはみんなにまた会うためにはゼロから再出発しなければなりません。・・・」そして2003年11月「Schugar/Schenker 」の「UNDER CONSTRUCTION」がリリースされます。しかし、エイミーはその後、2004年にはドイツ人のGrave Diggr氏とライブの共演やベーシストのレヴ・ジョーンズとコラボレーションを行うなど精力的に音楽活動を広げていきます。マイケルも2003年12月後半から新作のアルバム「THE ENDLESS JAM」のレコーディングに入ります。名義は「SCHENKER-PATTISON」で(G)Michael schenker、(Vo.)Davey Pattison、(Dr)Aynsley Dunbar、(B)Gunter Nazhodaのラインナップです。内容は70年代の名曲のカバー・アルバムです。マイケルは「ジャム・セッションはあまり好きじゃない」「そもそもそういうのは苦手だ」と言っていました。しかし、このカバー・アルバムの制作はプロデューサーのマイク・ヴァーニーの発案だそうで、マイク・ヴァーニーからマイケルに電話があり「興味はあるのか?」と聞かれ「やるよ」と返答したそうです。選曲、デイヴィ・パティソン(Vo)の起用もマイク・ヴァーニー主導で行われたものだそうです。そして、2004年6月「THE ENDLESS JAM」がリリースされました。

■曲 折  2004

2004年6月、SCHENKER-PATTISON SUMMITとして「THE ENDLESS JAM」を発表します。その後、マイケルとウリ・ジョン・ロートとの饗宴が2004年6月に発表されます。9月にウリ・ジョン・ロートとMSGが同ホールでライブを行い、各々別のセットで演奏を行った後で、ジャムを行うものでした。しかし、その後に拡大され、8月からツアーを行うことに変更され、さらにジョージ・リンチをフューチャーするといったものに見直されました。それと同時にMSGとしてのツアーも2004年8月、9月に米国、10月、11月に欧州のツアーを組み合わせてスケジュールされていました。ツアーのラインアップは2003年の米国ツアーと同じでMICHAEL SCHENKER(guitar)、CHRIS LOGAN(vocal)、REV JONES (bass)、 WAYNE FINDLAY (keyboards/guitar)、PETE HOLMES (drums)です。そして、6月中旬に驚いたニュースが飛び込んできます。マイケルの公式サイトに新しいツアー日程が掲載されたのですが、何と韓国で7月16日、17日の2回の公演が正式決定します。しかし、6月下旬には韓国公演がご破算になったとのニュースが入ります。どうやら、プロモーターとMSGのエージェントが交わしている契約でプロモーター側に何か不履行があったことによるということです。このようにウリとMSGの8月からのツアーを控えている2004年6月24日に面白い出来事がありました。スペインのバルセロナで行われたBaron Rojo(バロン・ホロ)というスペインのバンドのライブに突然マイケルが登場したのです。Baron Rojo(バロン・ホロ)は当時Judas Priest公演のオープニング・アクトを務めました。マイケルはBaron Rojo(バロン・ホロ)のギター兼ボーカルのCarlos de Castro(カルロス・デ・カストロ)と一緒に「Assault Attack」を演奏したそうです。マイケルはCarlos de Castro(カルロス・デ・カストロ)のレスポールを弾き、それに合わせてCarlos de Castro(カルロス・デ・カストロ)が歌っていたそうです。どうして、マイケルがBaron Rojo(バロン・ホロ)のステージに上がったのかについては1983年頃にさかのぼります。1983年にリリースされたアルバム「BUILT TO DESTROY」の中に収録されている「RED SKY」という曲は有名だと思いますが、そのクレジットにはSchenker/Barden/Glen/McKenna/J.Luisとあり、J.LuisはJose Luis Campuzano “Sherpa”(ホセ・ルイス・カンプザーノ)「シェルパ」でBaron Rojo(バロン・ホロ)の元ベーシスト兼ボーカルでした。その頃からの繋がりで、2003年にBaron Rojo(バロン・ホロ)が発表したアルバム「Perversions」の5曲目に「Assault Attack」のカバーが収録されており、そのプロモーションの一環としてマイケルが駆け付けたという事だと思われます。マイケルがレスポールを弾くというレアな場面でした。そして2004年8月からウリ&MSG 、MSGの米国ツアーが始まり順調にステージをこなしていきました。そしてMSG米国ツアー最後のステージ2004年9月19日ニューヨーク公演で、またまた驚いたことが起こりました。MSGのパフォーマンスは最高で、アンコールで「Rock Bottom」を演奏したのですが、なんと客席から少女がステージに上がって「Rock Bottom」のソロをマイケルと掛け合いで引いたのです。しかもマイケルが少女にソロパートを譲って掛け合いが成立しており、さらにその少女のギターの腕前はテクニカルでなかなかのものだったそうです。会場に大柄の男性が最前列で、その少女を肩車して、少女はノリノリでエア・ギターを弾いていたそうです。その少女にローディから声をかけバックステージに来るように言われたそうです。その場に母親もいて彼女は14歳だという事がわかったそうです。後でわかったことですが少女がステージに上がったのはマイケルが自発的にやったことで、少女にとっては予想もしなかった嬉しいハプニングだったそうです。肩車をしていた大柄の男性はその少女の父親で、その少女の名前はKristen(14歳)で12歳の時に「Lights Out」を弾いているところをビデオに撮ってマイケルに送っていたそうです。そのビデオを見ていたマイケルは、その少女の事を覚えていて、最前列にいる事に気づきローディに楽屋に連れて来させたそうです。少女は14歳には見えないくらい大人っぽかったそうです。するとそれが、あまりにもギターが上手かったという事だそうです。話は変わりマイケルは長年、愛用してきたGibsonのギターから2004年9月29日、Dean Guitars社とエンドース契約を締結しました。、ボリュームとトーンノブの配置をマイケル所有のギブソンに近いものに変更した限定米国産モデルが製造されることになりました。マイケルにとって初めてのエンドース契約であるとされています。次にドイツのプロデューサー・ギタリスト・ギターショップのオーナーであるSiggi Schwarzのアルバムにマイケルが参加した形のアルバム「Siggi Schwarz & The Electricguitar Legends Vol.1」(2004年)がリリースされます。ブルース・ロックを中心とした内容で、ラインナップはSiggi Schwarz(Guitars)、Martin Hesener(Vocal-Bass)、Bernd Elsenhans(Drums)、Geoff Whitehorn(Rhythm & Solo Guitars)、Michael Schenker(Solo Guitars)、Alex Conti(Solo Guitars)、Frank Diez(Solo Guitars)、Romi Schickle(Additional Keyboards)です。14曲収録されていて、そのうち5曲に参加しています。そしてMSGとして2004年10月~11月欧州ツアーも後半にアクシデント?トラブル?が発生します。2004年11月14日スウェーデンのストックホルム公演が終わった後、Chris Logan(Vo)が自身のサイトでメッセージを出しました。「我々のツアー・メンバーの一人と口論になり、背後より2度にわたって暴行を受けてしまった。その中で僕はひどく怪我してしまい、現状ではツアーを続けることができなくなった。」と言ったものでした。Chris Logan(Vo)は14日(日)の夜にMSGのメンバーと喧嘩になった後、ツアーを離脱したそうです。Chris Logan(Vo)は歯を数本折られたと伝えられています。そしてMSGのツアーはスウェーデン人シンガーのLeif Sundin がChris Loganに代わってマイケル・シェンカー・グループのツアーに参加することになりツアー継続可能になりました。後にマイケルはラジオ・インタビューでは「一体何があったの?」と言った質問に「本当に何も知らないんだ。ツアーマネージャーが目に黒いあざを作って僕のところにやって来たときは、僕は寝ていたんだ。Chrisが酔っていたのは知っているけど、具体的に何が起こったのかは本当に知らないんだ。」と言っていたそうです。とかく、このような事件が起こるとマイケルを中心に、マイケルが原因で起こったと思われがちなのですが、今回はマイケルは無関係のようでした。後にChrisにケガを負わせたメンバーがRev Jones(B)であることが12月初旬のインタビューでわかります。Revは詳細に語っています。Revは夜、床に入っていると外から何やら叫び声のようなものが聞こえ何が起こっているのかと思い外へ行き声のするツアーバスの方へ行ってみるとツアーマネージャーがサポートバンドのメンバーの何人かに制止されていたそうです。そこにChrisが駆け寄りいきなりツアーマネージャーの目のあたりにパンチを食らわせる場面をRevは目撃したそうです。Revはこれはただ事でないことを察知しChrisにタックルし地面にうつ伏せに押さえつけるようにしたそうです。Revは「もう止めとけ、みんなに迷惑かけているぞ!」と言ったそうです。そこでChrisは、「わかった、わかった、もう止めとく」と言ったので、RevはChrisを放し沈静化したそうです。その後みんなでバスの中に入り、ツアーマネージャーと「大丈夫か?」と話していたときに、またもやChrisが何か意味不明なことをいいながら、ツアーマネージャーに飛びかかり2度目のパンチを食らわせ、もみくちゃになったのでRevもその中に入り二人を引き離すと、Chrisは酒に酔っているのか、ふらふらしていたそうです。「いい加減にしろ!」と言うと、Chrisは「分かった。もう終わりだ。俺は帰る。」と言った後、また意味不明なことを叫んでいたそうです。Chrisは「俺はもうやめる」と言って荷物をまとめながら悪態をつきながら怒鳴っていたそうです。Revたちはここから出ていけと言うしかなかったそうで次第にChrisの矛先がRevに向きはじめRevに悪態をつくようになり、その内容がどうもRevが「マイケル側」「バンド側」のような派閥的な事を云っていたそうです。そしてChrisはRevのことをtraderだと言いながらRev近づいてきて、「fuck off」(消えうせろ)と言ったのでRevも切れてしまいChrisに複数パンチを食らわせたそうです。と言うよりボコボコにしたという方が表現としては正確かも知れません。そもそもツアーマネージャーとのもめ事の原因はよくわかりませんがChrisはツアー中に色々な関係者と対立していて、喧嘩になりそうだったそうです。常に物事に文句を言い、公演中もいつも途中から酔っ払っていたそうです。何やら1975頃のフィル・モグのようです。翌日11月15日のLIVEもスウェーデン公演なので、スウェーデンにはLeif Sundinがいるという事で即オファーを送りLeifは列車に飛び乗り、開演1時間前に到着したそうです。そして、その1時間で曲を覚え、やり遂げたそうです。Leifはコンサートが終わるまでメンバーの名前も知らなかったそうです。その後、マイケルはヴォーカルが変わったことについてインタビューに答えています「すべて順調だよ。Leifはいい仕事をしている。」つづいて「僕は、英国公演(11月23日~)では3人のシンガーを起用する予定だ。」と言っており3人とは、Leif Sundin、Gary Barden、Jari Tiuraでした。2004年11/23ノッチンガム公演、11/24ロンドン公演、11/26ダドリー公演、11/27ブラッドフォード公演ではLeif Sundin とJari Tiuraがボーカルで参加します。とりわけJari Tiuraは力強く、かつ声域の広いボーカルとして評価されました。このように何とかMSGの欧州ツアーは終了しArachnophobiacツアーを締めくくることになります。そしてSiggi Schwarzのバンドとマイケルがドイツで12月に3日間のコンサートツアーが決定します。そのツアーで演奏したのは「Siggi Schwarz & The Electricguitar Legends Vol.1」のアルバムから数曲、SCHENKER-PATTISON SUMMITのアルバムから数曲、「Too Hot To Handle」「Only You Can Rock Me」「Doctor Doctor」アンコールでは「Rock Bottom」を演奏したそうです。Siggiは「マイケルは驚くべきほど絶好調だったとしか言いようがない。またマイケルとの3回の公演は素晴らしく、ベストのコンディションで行えた。」と言っていたそうです。

 

■空 転  2005

2005年1月20日カリフォルニア州ロング・ビーチのVAULT 350で楽器見本市イベント「NAMM Night of Guitar」にMSGが参加することが前年12月に決定します。MSG以外にはGEORGE LYNCH (Dokken)GILBY CLARKE (guns & roses)BRUCE KULICK (Kiss)FRANK HANNON (Tesla)が出演。MSGでは13年ぶりにRobin McAuley(ロビン・マッコリ―)がMSGのステージに立つことが決まります。また1曲のみですがGraham Bonnet(グラハム・ボネット)も参加することになります。しかし、前日の19日には元気にマイケルとリハーサルをこなしていましたが、当日、体調を崩し結局ステージには上がりませんでした。Robin McAuley、Leif Sundin(リーフ・スンデン)、Kelly Keeling(ケリー・キーリング)が出演しマイケルも今までにない的確なピッキングを披露したそうです。そして、昨年12月に手を骨折したRev Jones(レヴ・ジョーンズ)は状況が完全でない状態に加えて、ビールを飲みすぎて、さらにInto The Arenaのソロ時にもアンプの後ろで飲んでいたそうで、マイケルもRev Jonesのそうした行動に不満そうな表情を浮かべるなど、関係性が悪くなります。Chris Logan(クリス・ローガン)との暴行事件が関係しているのでしょうか?・・・そして前年12月からSchenker/Pattison第2弾「The Endless Jam Continues」のレコーディングが開始されていました。前作同様プロデューサーのマイク・ヴァーニー主導で選曲から制作され、マイケルはインタビューで「ただスタジオへ行ってリードだけを弾くんだ」と言っていたそうです。また「そういうやり方で弾くと自由に解放されてとても流暢にプレイすることができる」とも言っていました。また同時期(2004年12月)には別のプロジェクトでカバーアルバム「MICHAEL SCHENKER AND HEAVY HITTERS」をボブ・キューリックのプロデュースによりロサンゼルスのOffice Studiosで制作がスタートしていました。このプロジェクトにはトミー・ショウジョー・リン・ターナー等の有名なミュージシャンが参加しておりリード・ギターはマイケルがすべて弾いています。本人曰く「すべてジャムだよ。」と言っていたそうです。とりわけSchenker/Pattison第2弾「The Endless Jam Continues」のレコーディングにはGibson製のフライングVではなくDean製のシグネチュア・Vシェイプを使用していたそうです。また、2005年1月はMSGが結成されて25周年になり、それを記念したアルバム「Tales of Rock’n Roll」の制作が企画されていました。メイン・ボーカルにJari Tiura(ヤリ・ティウラ)を迎え、MSG歴代のヴォーカリストがゲスト参加し、さらにベースにPete・Way(ピート・ウェイ)を起用というものでした。ゲスト参加のヴォーカリストのスケジュール調整に時間をかけて収録していく予定でレコーディングが2005年1月にスタートします。また、2005年2月に「マイケル・シェンカーのアンプラグドの夕べ企画」が浮上します。マイケル・シェンカー<g>、Wayne Findlay(ウェイン・フィンドレイ)<g、key> Kelly Keeling(ケリー・キーリング)<Vo>のメンバーです。カリフォルニアで5公演3/23~3/27が決定します。さらに、続けて2005年3月に入り5月28日にメキシコ・モンテレーで開催される「2005 MONTERREY MATAL FEST」にMSGがメインステージへの出演が決定します。すると、すぐさま「マイケル・シェンカーのアンプラグドの夕べ」の公演が2006年に延期することが決まります。それはマイケルがMSG 25周年を祝うアルバム「Tales of Rock’n Roll」の制作に専念したいという意向からだそうです。それだけマイケルにとってこのアルバム制作は重要な位置づけにあるという事が伺えます。そして2005年3月に耳より情報が飛び込んできます。Yngwie Malmsteen公式サイトで2005年の英国公演の4公演のオープニング・アクトにマイケル・シェンカー・グループ(MSG)が出演することが決まったと発表があったのです。日程は2005年5/30、5/31、6/1、6/3。しかし、4月に入りその報道の一部訂正のプレス・リリースがマイケル側からありました。どうやらオープニング・アクトでの出演ではないという内容でした。そのことに対してはっきりしない状態の中、2005年4月1日Schenker/Pattison第2弾「The Endless Jam Continues」がリリースされます。これで、MSGのツアー日程が「Monterrey Metal Fest in Mexico 」メキシコ公演5/28、「Yngwie Malmsteenオープニング・アクト」英国公演5/30~6/3(4公演)、そして、スペイン公演6/4~6/11(5公演)が決定します。しかし、その中で、2005年5月マイケル・シェンカー公式サイトでYngwie Malmsteenとのツアーのキャンセルについて発表が出たのです。マイケルがYngwie Malmsteenとのツアーに合意したのはカップリングのLIVEで共同ヘッドライナーという形態でYngwieはトリを務めるというものだったそうです。マイケルが説明するにはYngwieのギターは大音量で弾くため、Yngwieの後だと繊細なマイケルのギターPlayが、かき消されてしまう恐れがあったからだというものだったそうです。しかし、プレス・リリースではYngwieのLIVEに特別ゲストという形で出演することになっており、Yngwieのサイトでもそのように発表されていたそうです。これはマイケル・シェンカー、MSGにとっては面子を潰された状態で不名誉なことでした。マイケルは兄ルドルフ・シェンカーに相談したそうです。普段は前向きな解決策を見出す弟思いのルドルフも今回のツアーはキャンセルすべきだとアドバイスを送ったそうです。また、MSG 25周年ということもありツアーをキャンセルするという結論に至ったそうです。その頃にはMSG 25周年記念アルバム「Tales of Rock’n Roll」のミキシングもほぼ完成しておりLeif Sundinと例のRevにボコボコにされたChris Loganが最後の収録をしている時でした。MSGの25年の歴史で歌ってきたシンガーが全員参加する企画であるため、タイトな日程等を組みながら着々と時間をかけ制作を進めていったそうです。それから2ケ月ほどした2005年7月、前年の2004年12月にレコーディングしていた別のプロジェクトでカバーアルバムの「MICHAEL SCHENKER AND HEAVY HITTERS」がリリースを控えていました。するとマイケルの元にインタビュー取材の申し入れが多く寄せられ、マイケルは「オールスター・バンド」の収録に参加したという思いでいただけに、このインタビュー取材の多さに不審を抱き、マイケルはプロデューサーのボブ・キューリックに連絡しリリース予定のCDを送ってもらうよう頼んだそうです。そして届いたCDを見てマイケルはびっくりしたそうです。ジャケットにDean製のVシェイプが全面にありMSGのロゴがが掲げられており、さらに「MICHAEL SCHENKER GROUP  HEAVY HITTERS」というタイトルに変更されていました。これはマイケルに承諾もなく「MSG」の名前が使われたという事で、プロデューサーのボブ・キューリックもしくはレコード会社の仕業だと考えられますがマイケルはこのことに対し不快感を表していました。「MSGはカバー・バンドになってしまった。いろんな人が自分の周りで色々こそこそやっているのは変な感じだ。アルバムの出来は素晴らしかったが、そうした気味の悪い、強欲な人間がいることに困惑している。彼らがこのような行動を罰も受けず続けられることが理解できない」と言っていたそうです。その状況の中、2005年7月12日「MICHAEL SCHENKER GROUP  HEAVY HITTERS」がリリースされます。さらに、2005年9月 格闘ゲームのBGMに使用するゲーム音楽のサウンド・トラック2曲にマイケルが参加するという極めて珍しい情報が入ってきます。アルバムのタイトルは「Heavy Metal Thunder」東芝EMIからリリースされます。半自立型ロボット格闘ゲーム『ヘビーメタルサンダー』はゲーム業界初の各対戦ステージのBGMとして、ヴォーカル入り楽曲を使用していて「ゲームオリジナルサウンドトラック」だそうです。そして、2005年11月マイケル・シェンカー・グループの25周年記念アルバム「Tales of Rock’n Roll」のレコーディングが完了し、プロモーションのための米国ツアーも決定します。2005年12月末シカゴから始まり2006年1月サンタナで締めくくります。続いて、欧州ツアーの日程も発表されました。2006年5月6日のブルガリアのKavarna公演からスタートし、欧州を回って6月5日にまたブルガリアのソフィア公演で締めくくるという日程でした。このように着々とMSG 25周年記念ツアー・イベントが計画されている中、ある情報が入ってきます。「G3ツアー」です。ACCEPTのギタリストWolf Hoffmann(ウルフ・ホフマン)がMetalEaterの独占インタビューで興味深い内容を語っていました。ウルフ・ホフマンウリ・ジョン・ロート、マイケル・シェンカーが参加する、いわゆるドイツ人ギタリスト版G3ツアーが企画されているというのです。ウルフ・ホフマンによると、ウルフ・ホフマン自身はインスト曲を演奏し、ウリとマイケルは、他のミュージシャンによるジャム形式のライブ構想を立てているとのことです。ただ、まだ協議段階であるが95%確実であると語っていました。すると12月のMSG 25周年記念ツアー米国公演の目前(1週間前)に「米国ツアー中止」の情報がマイケル公式サイトからプレス・リリースされます。マイケルは今、米国外におり、なんと脅迫を受けているというのです。今、米国に戻るのは危険であると・・・。養育費を支払ったにもかかわらず、さらなる支払いを迫られていると・・・。要求に応えなければ投獄されるか罰金を支払わねばならないと言われたというのです。パスポートの差し止めや資産凍結、さらには投獄される危険さえあると脅されている。この状況が解決するまでは米国には戻れない。といった内容だそうです。これは恐らくBellla PiperとLinda Schenkerとのトラブルではないかと考えられます。マイケルは2人に何か改善に向けてアプローチを試みたが、良い結果が出なかったという事だと思われます。マイケルは、自分自身の安全を担保し、今後も音楽活動を今まで通り、継続するためには、今回の米国ツアーを犠牲にしなくてはならなくなった。と言っており、さらにBellaとLindaが金銭のために不公正なやり方でマイケルを脅すのをやめない限り米国には戻らない。と付け加え、今後は、「Tales of Rock’n Roll」のリリースを予定通り行えるように集中し、2006年の欧州ツアーの準備に取り掛かると言った内容でした。実質、米国ツアーはキャンセルとなります。そして2005年12末に「G3ツアー」の中止も発表されます。これは別の理由で、マイケル・シェンカーがMSGの2006年の「MSG 25周年記念ツアー」の日程の中に「G3ツアー」を組み合わせることができなかったため中止に至ったという内容でした。そもそもMSGのウルフ・ホフマンとウリ・ジョン・ロートとのツアーは確定していたわけではなく、ウルフ・ホフマンが最終決定の前にMetalEaterの独占インタビューで発表してしまっただけだそうで、「中止」という表現も本来なら適切ではないということでした。

■出典
・マイケル・シェンカー フライングV伝説 新興楽譜出版社 1982年3月25日初版発行 筆者 伊藤政則
・アンソロジーマイケル・シェンカー 株式会社シンコーミュージック 1984年9月10日初版発行
・ヤング・ギター[インタビューズ] マイケル・シェンカー 株式会社シンコーミュージック・エンタテイメント 2015年6月7日初版発行
・KAWADE夢ムック 文藝別冊[永久保存版 総特集] マイケル・シェンカー 神、降ー永遠のフライング・アロウ 株式会社河出書房新社 2018年8月30日初版発行
・beatleg magazine ビートレグ4月号 Vol141 有限会社レインボウブリッジ 2012年4月1日発行
・YOUNG GUITAR【collection】vol.8 マイケル・シェンカー  株式会社シンコーミュージック・エンタテイメント 2007年9月11日初版発行  
・SHINKO MUSIC MOOK YOUNG GUITAR SPECIAL 天才ギタリスト マイケル・シェンカー  株式会社シンコーミュージック・エンタテイメント 2005年7月18日初版発行
・ SHINKO MUSIC MOOK UFOフューチャアリング:マイケル・シェンカー  株式会社シンコーミュージック・エンタテイメント 2018年3月18日初版発行
・ SHINKO MUSIC MOOK Michael Schenker featuring MSG  株式会社シンコーミュージック・エンタテイメント 2020年4月2日初版発行
・ヘヴィ・メタル写真集⑦マイケル・シェンカー 株式会社シンコー・ミュージック 1984年7月10日初版発行
・ONGAKU SENKA 音楽専科 1981年10月号 第624号 株式会社音楽専科 1981年10月1日発行P.27~30 P.73~87
・MUSIC LIFE ミュージック・ライフ 1981年8月号 新興楽譜出版社 1981年8月1日発行 P.125~129 P.151 P.178
・MUSIC LIFE ミュージック・ライフ 1982年5月号 新興楽譜出版社 1982年5月1日発行 P.116~123
・MUSIC LIFE ミュージック・ライフ 1983年2月号 新興楽譜出版社 1983年2月1日発行 P.116~128
・MUSIC LIFE ミュージック・ライフ 1983年3月号 新興楽譜出版社 1983年3月1日発行 P.127~131
・MUSIC LIFE ミュージック・ライフ 1984年3月号 新興楽譜出版社 1984年3月1日発行 P.113~117
・Young Guitar ヤング・ギター 1981年10月号 新興楽譜出版社(略称シンコーミュージック) 1981年10月1日発行 P.1~5 P.49~55
・Young Guitar ヤング・ギター 1983年10月号 株式会社シンコーミュージック 1983年10月1日発行 P.43~50 P.188
・Young Guitar ヤング・ギター 1987年2月号 株式会社シンコーミュージック 1987年2月1日発行 P.83~87 
・Young Guitar ヤング・ギター 1988年2月号 株式会社シンコーミュージック 1988年2月1日発行 P.1~3 P.109~114 
・Young Guitar ヤング・ギター 1988年4月号 株式会社シンコーミュージック 1988年4月1日発行 P.1~9 P.112~118 
・Young Guitar ヤング・ギター 1991年6月号 株式会社シンコーミュージック 1991年6月1日発行 P.1~4 
・Young Guitar ヤング・ギター 1992年3月号 株式会社シンコーミュージック 1992年3月1日発行 P.28~31 P.180 
・Young Guitar ヤング・ギター 1994年4月号 株式会社シンコーミュージック  株式会社ワイ・ジー・ファクトリー 1994年4月1日発行 P.1~14 P.35~50 
・Young Guitar ヤング・ギター 1995年5月号 株式会社シンコーミュージック  株式会社ワイ・ジー・ファクトリー 1995年5月1日発行 P.4~9 
・Young Guitar ヤング・ギター 1998年8月号 株式会社シンコーミュージック  株式会社ワイ・ジー・ファクトリー 1998年8月1日発行 P.4~13 P.46
・Young Guitar ヤング・ギター 2006年6月号 シンコーミュージック・エンタテインメント 2006年6月1日発行 P.32~ 49 P.115
・Young Guitar ヤング・ギター 2010年3月号 シンコーミュージック・エンタテインメント 2010年3月1日発行 P.1~13  
・Young Guitar ヤング・ギター 2010年5月号 シンコーミュージック・エンタテインメント 2010年5月1日発行 P.26~35
・Young Guitar ヤング・ギター 2012年7月号 シンコーミュージック・エンタテインメント 2012年7月1日発行 P.6~ 29
・Young Guitar ヤング・ギター 2013年12月号 シンコーミュージック・エンタテインメント 2013年12月1日発行 P.4~16
・Young Guitar ヤング・ギター 2015年5月号 シンコーミュージック・エンタテインメント 2015年5月1日発行 P.4~16
・Young Guitar ヤング・ギター 2018年5月号 シンコーミュージック・エンタテインメント 2018年5月1日発行 P.2~17 P.32~35
・Guitar magazine 2006年5月号 株式会社リットーミュージック 2006年5月1日発行  P77~88
・BURRN!1986年10月号 株式会社シンコー・ミュージック 1986年10月1日発行 P.2~10 
・BURRN!1987年2月号 株式会社シンコー・ミュージック 1987年2月1日発行 P.49~52
・BURRN!1987年9月号 株式会社シンコー・ミュージック 1987年9月1日発行 P.134~137
・BURRN!1989年11月号 株式会社シンコー・ミュージック 1989年11月1日発行 P.10~13 
・BURRN!1996年10月号 株式会社シンコー・ミュージック 株式会社バーン・コーポレーション1996年10月1日発行 P.18~22
・BURRN!2017年11月号 シンコーミュージックエンタイメント 2017年11月1日発行 P.4~24
・BURRN!2018年4月号  シンコーミュージックエンタイメント  2018年4月1日発行 P.6~15
・BURRN!2018年11月号  シンコーミュージックエンタイメント  2018年11月1日発行 P.4~17
・BURRN!2019年9月号  シンコーミュージックエンタイメント  2019年9月1日発行 P.4~13 P.150
・BURRN!2021年2月号  シンコーミュージックエンタイメント  2021年2月1日発行 P.2~27
・WeROCK Vol.062 有限会社サウンド・デザイナー 1918年1月15日発行  P.8~11
・RURRN!2018年1月号臨時増刊 METALLION 61 シンコーミュージックエンタイメント 2017年11月29日 P.1~8 P.91~95
・CD「MSG」神話 THE MICHAEL SCHENKER GROUP 2009年リマスター ライナーノーツ 2000.4.3伊藤政則/MASA ITO 2009.2.24伊藤政則/MASA ITO
・CD「ASSAULT ATTACK」黙示録  THE MICHAEL SCHENKER GROUP ライナーノーツ 1982.10大森庸雄 1982.10.7伊藤政則(MASA) 2000.4.5伊藤政則/MASA ITO 
・CD「BUILT TO DESTROY」限りなき戦い THE MICHAEL SCHENKER GROUP ライナーノーツ 83.10.13伊藤政則/MASA-ITO 90.6.7 伊藤政則/MASA-ITO  2000.4.5 伊藤政則/MASA-ITO
・CD「PERFECT TIMING」MCAULEY SCHENKER GROUP ライナーノーツ 87.8.25 伊藤政則/MASA-ITO
・CD「THE UNFORGIVEN」MICHAEL SCHENKER GROUPライナーノーツ 99.2.5 伊藤政則/MASA-ITO
・CD「IN THE MIDST OF BEAUTY」MSG SCHENKER-BARDEN ライナーノーツ 2008.4.11 伊藤政則/MASA-ITO
・CD「SAVE YOURSELF」 MCAULEY SCHENKER GROUP ライナーノーツ マイケル・シェンカ―・ストーリー 伊藤政則/MASA-ITO
・CD「ARACHNOPHOBIAC」MICHAEL SCHENKER GROUP ライナーノーツ 2003.5.11 伊藤政則/MASA-ITO
・CD「ADVENTURES OF THE IMAGINATION」MICHAEL SCHENKER ライナーノーツ 00.1.24 伊藤政則/MASA-ITO 2000.1.21前田岳彦/BURRN! 200.1.20平井毅/YOUNG GUITAR
・CD「WALK ON WATER」UFO ライナーノーツ 1995.3.14酒井康 1995.3.14伊藤政則
・CD「M.S.G」 MCAULEY SCHENKER GROUP ライナーノーツ 91.8.12 伊藤政則/MASA-ITO   91.10.28 伊藤政則/MASA-ITO 92.8.11 伊藤政則/MASA-ITO
・CD「CONTRABAND」 CONTRABAND ライナーノーツ 91.4.13 伊藤政則/MASA-ITO
・CD「STRNGERS IN THE NIGHT」UFO ライナーノーツ 1989.6.増田雄一
・CD「UFO”BBC Radio 1Live In Concert”」UFOライナーノーツ 1993.11.5大鷹俊一
・CD「Written in the Sand」MICHAEL SCHENKER GROUP ライナーノーツ 96.7.28伊藤政則/MASA-ITO
・VHS「HISTORY OF UFO WITH MICHAEL SCHENKER」ライナーノーツ 伊藤政則/MASA-ITO 〈UFO ヒストリー〉92.5.11西影憲介/KEN NISHIKAGE
・VHS 「M.S.G”UNPULUGGED”LIVE」M.S.Gライナーノーツ 93.10.11 伊藤政則/MASA-ITO
・マイケルシェンカ―・ツアー情報とニュース ウェブサイト http://www.rbaraki.com/ 




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